第一章 血統と家族 英國の十七世紀から十八世紀までを、文學史では、大體に於て擬古典主義の時代と呼ぶ。擬古典主義と言ふ言葉が正確に當時の文學の傾向を言ひ盡してゐるかどうかは問題であるが、少くとも其處には、特にそれ以外の言葉で呼ばなければならぬやうな新鮮な文藝の精神が見られなかつた事は事實である。
文學は主として客間のものであつた。客間の産物であり、同時に客間の裝飾品であり、パスタイムであつた。温泉場の娯樂品であつた。社交界の雜談の種であつた。從つて、生々とした文藝の精神は姿を隱してしまつて、言つて見れば戲作者風のくすぐりや、皮肉や、諧謔やが專ら行はれた。それ故に、この時代の文學が若し面白いと思はれる場合には、文藝と當時の社會状態とを關係させて、その關係の上に於て面白いのである。文藝それ自身には比較的、傑出した作品も、興味ある作品も餘り見出されない。徒らに訓話註釋に走つた、若しくは諷刺教訓を事とした作品が多い。
しかしかくの如き状態は、それ自身の持つてゐる性質の上から、永續すべき傾向では無い。十八世紀後半に起つた大陸の革命的な學術文藝──ドイツの「大暴風雨時代」、フランスの
ユーゴー作『エルナニ』の勝利に依つて刺戟されたロマンティシズム運動──の潮流は次第に英國の擬古典主義をおびやかし始めた。其處にフランス革命が起つた。この大動亂の海を越えての影響は、社會的にも文藝的にも、英國を襲つた。今迄消極的な牙城にたてこもつてゐた舊文藝も遂にその勢力を失墜せざるを得なくなつた。
新鮮な、自發的な、荒々しいロマンティシズムの傾向が、今迄の鬱屈を突き破つて現はれた。
ウォーズウォースが出た。
コールリッヂが姿を見せた。
サウヂイが現はれた。
シェリイが出た。そして
バイロンが生れた。
しかもウォーズウォースは「自然」へ去つた。バイロンのみが「暴風」の中へ身ををどらせて突入した。
「バイロン!」
この名は十九世紀の世界文學史の中で、最も輝かしい名の一つである。この名ほど度々惡意と同時に善意を以て人々の口にされた名は無かつた。或る者は、この名を最大の憎惡と嫌惡を以てロにした。或る者は最高の崇拜と憧憬とを以て口にした。あらゆる批評家等の彼に對する批評は極端に褒貶相反した。サウヂイは、彼のことを「惡の權化」と言つた。又さるアメリカの評論家も、これと同意見を發表してゐる。その同じ彼が、
グイッチョリ伯爵夫人に取つては大天使であつたのだ。
カーライルは、「彼は一人の陰氣な伊達者に過ぎなかつた」と言つてゐる。しかも
ゲーテは、彼を目して
シェクスピヤ以來の英國第一の詩人だと言つてゐる。フランス、イタリー、スペイン等の第一流の批評家連もゲーテと同意見であつた。
しかし、そのやうな論者の總てが、次の一點に於ては一致した意見を持つてゐた。即ち「バイロンは、自分の詩に對して誇りを持つてゐたのと同時に、自分の家系に對して誇りを持つてゐた。そして彼の性質にある善と惡は、祖先から受繼いだものであつて、先天的なものであつた」と言ふことである。それ故に、彼の家系を調べることも、あながち無駄なことではあるまい。
傳説に、古代ノールウェー人ブーラン族が、その故郷スカンヂナヴィアから移住して、一部はノルマンディに落着き、一部はリヴォニアに住居を定めたと言ふ物語がある。その後者、即ちリヴォニアに住居を定めたブーラン族に屬する者で、マーシャル・ド・ブーランと言ふ勇者がゐた。この人は當時まだ極く極く小さかつたロシアに對して殆んど絶對の支配權を持つてゐた。ところが、このブーラン家の一族の内の二人の者が、英王ヰリアム一世に從つて英國に定住した。
この二人の者と言ふのは、エルネスト・ド・ブーランと、ラルフ・ド・ブーランであつた。後者のラルフが、詩人バイロンの先祖である。このラルフの事は、英國最初の權威ある記録であるところのドゥムスディ紀に記載してある。それによると、ラルフはノッティンガム州とダービーとに領地を持つてゐたと言ふ。
ラルフの息子のヒューはホレスタン城の城主であつた。ヒューの息子は、矢張りその名をヒューと言つて、これは僧侶になつた。その息子のロヂャー卿は、自分の領土を、スヰンスヘッドの僧侶達に與へてゐる。ロヂャーの息子ロバートは、リチャード・クレイトン卿の後繼者のセシリヤ姫と結婚した。その時が、ヘンリー二世(一一五五―一一八九)の時代である。この時から、ヘンリー八世の朝までバイロン家は、ランカシャイアに住んでゐた。
後年、詩人バイロンは、「自分の祖先の幾人かはたしかに十字軍に加つた」と言つてゐる。この事はいかにも有り得ることではあるが、眞實のところは分明しない。
で、ロバートの次は矢張りロバートと言ひ、その子をジョンと言つた。このジョンはエドワード一世の朝にヨークの知事をやつてゐた。ジョンの二子、一人をジョンと言ひ、一人をリチャードと言つた。ジョンの方はカレイの包圍戰に參加して、その戰功に依つてエドワード三世から勳爵士を授けられた。一方リチャードの方には、これもジョンと言ふ息子がゐて、この方のジョンもヘンリー五世のために勳爵士を賜つた。ジョンの次をニコラスと言ひ、その次をジョン・バイロンと言ふ。それから二代を經てジョン(一六五二年パリに歿す)と言ふのが又ゐるが、この人は一六四三年ニューバリー、及びウォーラーの戰爭その他の戰功により、同年十月二十四日にロックディルの男爵を授けられて、此處に始めてバイロン家が貴族になつた。つまりこの人が最初のバイロン卿である。
第二番目のバイロン卿を、リチャード(一六〇五―一六七九)と言ひ、この人はネワルクの戰爭に戰功があつた。次のヰリアム(一六九五歿)はチャウォース子爵の娘エリザベスと結婚した。この人は、あんまり
巧くはないが詩を作つた。その次のヰリアム(一六六九―一七三六)即ち第四番目のバイロン卿には、數人の子供があつた。長子を同じくヰリアム(一七二二―一七九八)と言ひ、これが第五番目のバイロン卿である。
このヰリアムは最初海軍に加はつたが、後軍職を退いた。一七六五年、丁度アメリカ印紙條令が通過した年のこと、このヰリアムの身の上に一事件が起つた。
一月も末の頃、ポールモールに貴族の集會があつた、ヰリアムもまねかれてゐた。一座の中に
チャウォースと言ふ人がゐた。この人はバイロン家の縁類にあたる人であつた。ところが食事の時に、ちよいとした事からヰリアムとチャウォースが口論を始めた。隨分はげしい口論であつたが、別に大した事とも思はれぬので同座の人々は餘り氣にかけてゐなかつた。然し歸りがけにこの二人が階段の所で再び出會つた。すると再び口論が始まつた。遂に空いた部屋で決鬪をやると言ふ事になつた。二人は一室の扉を閉め切つて決鬪した。ヰリアムの方が勝つて、チャウォースは致命傷を受けた。
ヰリアムはロンドン塔に幽閉された。裁判が開始されると、當時貴族の殺人事件は非常にめづらしかつたと見えて、入場劵が、六ギニヤづゝで賣買された程である。二日間の審理の末に、滿場一致を以て殺人罪が宣告された。ヰリアムは、貴族としての特權を以て辯疏をし、罰金を拂つて自由の身になつた。然し彼はそれ以來、以前の彼とは異つた人間になつた。世間からは「幽靈に憑かれた人」と言はれた。假名を使つては、此處彼處をうろつき歩いた。あらゆる人々の眼を避けて住んだ。家にゐれば常にピストルを射る練習をしてゐた。荒々しい陰慘な事のみがこの所謂「邪惡の殿樣」の日夜を滿した。或る時には馬丁を射殺して、自分の妻の乘つてゐる馬車の中にその死體を投げこんだりしたと言ふ。
このヰリアムには、イサベラといふ妹と、ジョン(一七二三―一七八六)といふ弟があつた。イサペラはカーリッスル卿に嫁した。その子カーリッスル卿は、後年詩人バイロンの後見人となつた人である。ジョンと言ふ弟は、少時より海軍に投じて、海軍大將となり、終生海に日を送つた。このジョンの一生は、實に、波瀾に滿ちたものであつた。一七四〇年のスペインとの海戰に出た時だつた。マヂェラン海峽に難破して、危く一命を拾つたあげく、パタゴニヤ人につかまつてチリーの首都セント・イヤゴーに二年間監禁された。
その間の種々の冒險に就いてはジョンは自身で旅行記を書いてゐる(一七六八年出版)。この旅行記はかなり立派なものである。一七六四年彼は「ドルフィン」と「タマール」と言ふ船に乘つて、探檢航海に出發した。そして種々の發見をして、地球を周航して歸つて來た。彼には「あらしのジャック」と言ふ綽名がついた。
「彼は海にゐて休息する事が出來なかつた。自分も陸にゐて休息を持たぬ」と詩人バイロンが、後年この自分の祖父のことを言つてゐる。
一七四八年にこのジョンは、コンーウォールの大地主のジョン・トレヴァニオンの娘と結婚した。そして三人の子供を持つた。長子をジョン・バイロン(一七五一―一七九一)と言ひ、これが即ち詩人バイロンの父である。ジョンはウェストミンスターで教育を受け、近衞の大尉になつた。ところがこの人は當時の人からは「氣ちがひジャック」と呼ばれてゐた位で、生來あまり善い性質を持つてゐなかつた。一七七八年に彼は、ホルダーネス伯爵の娘にあたるアメリア・ダーシイ(當時力ーマルセン侯爵の妻であつた)を誘惑して、これと密通した。そのために、いろんな
いざこざが起つた。その果てが、二人は英國に居れなくなつて大陸の方へ出奔してしまつた。そして、一七七九年に、カーマルセン侯爵がアメリアを離縁したので、二人は正式に結婚した。ところが正式に結婚した後でも、ジョンの性質は元通りで、アメリアは慘めな生涯を送つた。そして、二人の娘を産んだ後、一七八四年に歿した。二人の娘の内の一人は幼にして死亡した。も一人はオーガスタと言つた。
アメリアが死ぬと、ジョン・バイロンは又直ぐに第二の妻を迎へた。ジョンは女を惹きつける美貌と魅力を持つてゐたのだ。第二の妻はガイトのカザリン・ゴルドン孃と言つた。彼女はヂェイムス一世の後裔であつて、アベルディーンシャイアにかなりの領地を持つてゐた。ところが、ジョンは例の通りの放蕩で、この第二の妻の領地をも、見る/\間に使ひ果してしまつた。
一七八六年に彼女はスコットランドを出發して、フランスへ行つた。そして次の年の末に英國に戻つて來た。そして一七八八年一月二十二日、ロンドンなるホーレス街で、子供を出産した。これが、第六番目のバイロン卿となつたヂョーヂ・ゴルドン、即ち詩人バイロンである。
その後間もなくして、父のジョンは、債鬼に責められてロンドンに居たゝまれなくなつてヴァレンシエンの方へ逃げて行つてしまつた。そして其處で一七九一年の八月に歿した。後に取り殘されたバイロン夫人と幼兒のゴルドンは、僅かに一年百五十ポンドの手當金を遺されたのみであつた。

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『バイロン伝』を元に作成した家系図。英語文献にあたっていないので、正しい保証はありません。