2009年01月02日

バイロン伝 INDEX

『バイロン傳』
ジョン・ニコル John Nichol (1833-1894)
三好十郎 (1902-1958)
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全54エントリー(2009/1/2〜2009/2/25)


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『バイロン伝』序



 バイロンは、英國近代が産出した、最も偉大なる性格の一つである。そして、偉大なる性格は、常に或る程度までは、一個の謎である。しかし、と言ふよりも、それ故に、バイロンに就いては、西洋各國に於て、種々な方面からの多樣な研究が遂げられてゐる。日本に於ても、これまで各種の紹介や飜譯その他で、バイロンといふ詩人が、どんな樣な傾向と性絡を持つた個性であるかといふ事は、既に漠然とではあるが理解されてゐる。だが、バイロンその人の一生の姿なり、一個の近代人としての彼が持つてゐた纖細な神經や、憂鬱や、苦惱や、又それらが形作つてゐた彼の生涯のこまやかな起伏に至つては、まだ全然日本の多數の人には了解されてゐないかに見える。で、それらを、ほんの少しでも解つて貰ひたいために、私のこの小さな努力は拂はれる。
 このバイロン傳は、主として、ロンドン・マクミラン社出版の『英國文豪傳集』中に收められてゐる『バイロン』── "Byron" (English Men of Letters); by John Nichol. Macmillan and Co. ──の一九〇九年版袖珍本に據つた。著者のジョン・ニコル(一八三三―一八九四)は、スコットランドに生れ、オックスフォードに學び、後グラスゴー大學の英文學教授になつた人である。『バイロン傳』以外にも『ロバート・バーンズ』、『カーライル』、『アメリカ文學』その他の著書がある。批評家として、及び傳記者として、盛名のあつたのは言ふまでも無い。特に『バイロン傳』は、その考證の廣さと、洞察の深さと、觀察の公平さとに依つて、數あるバイロン傳中に於ける白眉とされるものである。又、もう一つ見落してならぬ事がある。それは、ニコルは『バイロン傳』に於て、バイロンを惡魔に近いもの、又は英雄に近いものとして扱つてゐない點である。彼のバイロンは、徹頭徹尾「人間バイロン」である、そのために、バイロンを惡魔に近いもの、又は英雄に近いものとして觀た數多のバイロン傳記者の陷つてゐる誇張やセンティメンタリズムに陷つてゐない。
 しかし、私のこの『バイロン傳』は、ニコルの逐字譯では無い。それに所に依つては、不必要と思はれる所を省略し、不備だと思はれる個所には追加をほどこした。又、他の參考書を引用もした。これは、英國傳記者の書いた英國人の傳記を、日本人に十分了解させるためには是非の無い事である。それに、私の省略・追加・引用等は少くとも「日本人の讀むバイロン傳」としては、原書の價値を引き下げてはゐないと思ふ。
 ともあれ、不備ながら、これだけのバイロン傳を紹介し得た事に就いて、私は非常な喜びを持つ。
 最後に、この評傳を出版するために、種々親切な指導と教示とを與へて下さつた恩師、吉江喬松・日高只一兩先生に對して、心からの感謝の意を表したい。
譯者
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2009年01月03日

『バイロン伝』第一章 1/1

第一章 血統と家族

 英國の十七世紀から十八世紀までを、文學史では、大體に於て擬古典主義の時代と呼ぶ。擬古典主義と言ふ言葉が正確に當時の文學の傾向を言ひ盡してゐるかどうかは問題であるが、少くとも其處には、特にそれ以外の言葉で呼ばなければならぬやうな新鮮な文藝の精神が見られなかつた事は事實である。
 文學は主として客間のものであつた。客間の産物であり、同時に客間の裝飾品であり、パスタイムであつた。温泉場の娯樂品であつた。社交界の雜談の種であつた。從つて、生々とした文藝の精神は姿を隱してしまつて、言つて見れば戲作者風のくすぐりや、皮肉や、諧謔やが專ら行はれた。それ故に、この時代の文學が若し面白いと思はれる場合には、文藝と當時の社會状態とを關係させて、その關係の上に於て面白いのである。文藝それ自身には比較的、傑出した作品も、興味ある作品も餘り見出されない。徒らに訓話註釋に走つた、若しくは諷刺教訓を事とした作品が多い。
 しかしかくの如き状態は、それ自身の持つてゐる性質の上から、永續すべき傾向では無い。十八世紀後半に起つた大陸の革命的な學術文藝──ドイツの「大暴風雨時代」、フランスのユーゴー作『エルナニ』の勝利に依つて刺戟されたロマンティシズム運動──の潮流は次第に英國の擬古典主義をおびやかし始めた。其處にフランス革命が起つた。この大動亂の海を越えての影響は、社會的にも文藝的にも、英國を襲つた。今迄消極的な牙城にたてこもつてゐた舊文藝も遂にその勢力を失墜せざるを得なくなつた。
 新鮮な、自發的な、荒々しいロマンティシズムの傾向が、今迄の鬱屈を突き破つて現はれた。ウォーズウォースが出た。コールリッヂが姿を見せた。サウヂイが現はれた。シェリイが出た。そしてバイロンが生れた。
 しかもウォーズウォースは「自然」へ去つた。バイロンのみが「暴風」の中へ身ををどらせて突入した。
「バイロン!」
 この名は十九世紀の世界文學史の中で、最も輝かしい名の一つである。この名ほど度々惡意と同時に善意を以て人々の口にされた名は無かつた。或る者は、この名を最大の憎惡と嫌惡を以てロにした。或る者は最高の崇拜と憧憬とを以て口にした。あらゆる批評家等の彼に對する批評は極端に褒貶相反した。サウヂイは、彼のことを「惡の權化」と言つた。又さるアメリカの評論家も、これと同意見を發表してゐる。その同じ彼が、グイッチョリ伯爵夫人に取つては大天使であつたのだ。カーライルは、「彼は一人の陰氣な伊達者に過ぎなかつた」と言つてゐる。しかもゲーテは、彼を目してシェクスピヤ以來の英國第一の詩人だと言つてゐる。フランス、イタリー、スペイン等の第一流の批評家連もゲーテと同意見であつた。
 しかし、そのやうな論者の總てが、次の一點に於ては一致した意見を持つてゐた。即ち「バイロンは、自分の詩に對して誇りを持つてゐたのと同時に、自分の家系に對して誇りを持つてゐた。そして彼の性質にある善と惡は、祖先から受繼いだものであつて、先天的なものであつた」と言ふことである。それ故に、彼の家系を調べることも、あながち無駄なことではあるまい。
 傳説に、古代ノールウェー人ブーラン族が、その故郷スカンヂナヴィアから移住して、一部はノルマンディに落着き、一部はリヴォニアに住居を定めたと言ふ物語がある。その後者、即ちリヴォニアに住居を定めたブーラン族に屬する者で、マーシャル・ド・ブーランと言ふ勇者がゐた。この人は當時まだ極く極く小さかつたロシアに對して殆んど絶對の支配權を持つてゐた。ところが、このブーラン家の一族の内の二人の者が、英王ヰリアム一世に從つて英國に定住した。
 この二人の者と言ふのは、エルネスト・ド・ブーランと、ラルフ・ド・ブーランであつた。後者のラルフが、詩人バイロンの先祖である。このラルフの事は、英國最初の權威ある記録であるところのドゥムスディ紀に記載してある。それによると、ラルフはノッティンガム州とダービーとに領地を持つてゐたと言ふ。
 ラルフの息子のヒューはホレスタン城の城主であつた。ヒューの息子は、矢張りその名をヒューと言つて、これは僧侶になつた。その息子のロヂャー卿は、自分の領土を、スヰンスヘッドの僧侶達に與へてゐる。ロヂャーの息子ロバートは、リチャード・クレイトン卿の後繼者のセシリヤ姫と結婚した。その時が、ヘンリー二世(一一五五―一一八九)の時代である。この時から、ヘンリー八世の朝までバイロン家は、ランカシャイアに住んでゐた。
 後年、詩人バイロンは、「自分の祖先の幾人かはたしかに十字軍に加つた」と言つてゐる。この事はいかにも有り得ることではあるが、眞實のところは分明しない。
 で、ロバートの次は矢張りロバートと言ひ、その子をジョンと言つた。このジョンはエドワード一世の朝にヨークの知事をやつてゐた。ジョンの二子、一人をジョンと言ひ、一人をリチャードと言つた。ジョンの方はカレイの包圍戰に參加して、その戰功に依つてエドワード三世から勳爵士を授けられた。一方リチャードの方には、これもジョンと言ふ息子がゐて、この方のジョンもヘンリー五世のために勳爵士を賜つた。ジョンの次をニコラスと言ひ、その次をジョン・バイロンと言ふ。それから二代を經てジョン(一六五二年パリに歿す)と言ふのが又ゐるが、この人は一六四三年ニューバリー、及びウォーラーの戰爭その他の戰功により、同年十月二十四日にロックディルの男爵を授けられて、此處に始めてバイロン家が貴族になつた。つまりこの人が最初のバイロン卿である。
 第二番目のバイロン卿を、リチャード(一六〇五―一六七九)と言ひ、この人はネワルクの戰爭に戰功があつた。次のヰリアム(一六九五歿)はチャウォース子爵の娘エリザベスと結婚した。この人は、あんまりうまくはないが詩を作つた。その次のヰリアム(一六六九―一七三六)即ち第四番目のバイロン卿には、數人の子供があつた。長子を同じくヰリアム(一七二二―一七九八)と言ひ、これが第五番目のバイロン卿である。
 このヰリアムは最初海軍に加はつたが、後軍職を退いた。一七六五年、丁度アメリカ印紙條令が通過した年のこと、このヰリアムの身の上に一事件が起つた。
 一月も末の頃、ポールモールに貴族の集會があつた、ヰリアムもまねかれてゐた。一座の中にチャウォースと言ふ人がゐた。この人はバイロン家の縁類にあたる人であつた。ところが食事の時に、ちよいとした事からヰリアムとチャウォースが口論を始めた。隨分はげしい口論であつたが、別に大した事とも思はれぬので同座の人々は餘り氣にかけてゐなかつた。然し歸りがけにこの二人が階段の所で再び出會つた。すると再び口論が始まつた。遂に空いた部屋で決鬪をやると言ふ事になつた。二人は一室の扉を閉め切つて決鬪した。ヰリアムの方が勝つて、チャウォースは致命傷を受けた。
 ヰリアムはロンドン塔に幽閉された。裁判が開始されると、當時貴族の殺人事件は非常にめづらしかつたと見えて、入場劵が、六ギニヤづゝで賣買された程である。二日間の審理の末に、滿場一致を以て殺人罪が宣告された。ヰリアムは、貴族としての特權を以て辯疏をし、罰金を拂つて自由の身になつた。然し彼はそれ以來、以前の彼とは異つた人間になつた。世間からは「幽靈に憑かれた人」と言はれた。假名を使つては、此處彼處をうろつき歩いた。あらゆる人々の眼を避けて住んだ。家にゐれば常にピストルを射る練習をしてゐた。荒々しい陰慘な事のみがこの所謂「邪惡の殿樣」の日夜を滿した。或る時には馬丁を射殺して、自分の妻の乘つてゐる馬車の中にその死體を投げこんだりしたと言ふ。
 このヰリアムには、イサベラといふ妹と、ジョン(一七二三―一七八六)といふ弟があつた。イサペラはカーリッスル卿に嫁した。その子カーリッスル卿は、後年詩人バイロンの後見人となつた人である。ジョンと言ふ弟は、少時より海軍に投じて、海軍大將となり、終生海に日を送つた。このジョンの一生は、實に、波瀾に滿ちたものであつた。一七四〇年のスペインとの海戰に出た時だつた。マヂェラン海峽に難破して、危く一命を拾つたあげく、パタゴニヤ人につかまつてチリーの首都セント・イヤゴーに二年間監禁された。
 その間の種々の冒險に就いてはジョンは自身で旅行記を書いてゐる(一七六八年出版)。この旅行記はかなり立派なものである。一七六四年彼は「ドルフィン」と「タマール」と言ふ船に乘つて、探檢航海に出發した。そして種々の發見をして、地球を周航して歸つて來た。彼には「あらしのジャック」と言ふ綽名がついた。
「彼は海にゐて休息する事が出來なかつた。自分も陸にゐて休息を持たぬ」と詩人バイロンが、後年この自分の祖父のことを言つてゐる。
 一七四八年にこのジョンは、コンーウォールの大地主のジョン・トレヴァニオンの娘と結婚した。そして三人の子供を持つた。長子をジョン・バイロン(一七五一―一七九一)と言ひ、これが即ち詩人バイロンの父である。ジョンはウェストミンスターで教育を受け、近衞の大尉になつた。ところがこの人は當時の人からは「氣ちがひジャック」と呼ばれてゐた位で、生來あまり善い性質を持つてゐなかつた。一七七八年に彼は、ホルダーネス伯爵の娘にあたるアメリア・ダーシイ(當時力ーマルセン侯爵の妻であつた)を誘惑して、これと密通した。そのために、いろんないざこざが起つた。その果てが、二人は英國に居れなくなつて大陸の方へ出奔してしまつた。そして、一七七九年に、カーマルセン侯爵がアメリアを離縁したので、二人は正式に結婚した。ところが正式に結婚した後でも、ジョンの性質は元通りで、アメリアは慘めな生涯を送つた。そして、二人の娘を産んだ後、一七八四年に歿した。二人の娘の内の一人は幼にして死亡した。も一人はオーガスタと言つた。
 アメリアが死ぬと、ジョン・バイロンは又直ぐに第二の妻を迎へた。ジョンは女を惹きつける美貌と魅力を持つてゐたのだ。第二の妻はガイトのカザリン・ゴルドン孃と言つた。彼女はヂェイムス一世の後裔であつて、アベルディーンシャイアにかなりの領地を持つてゐた。ところが、ジョンは例の通りの放蕩で、この第二の妻の領地をも、見る/\間に使ひ果してしまつた。
 一七八六年に彼女はスコットランドを出發して、フランスへ行つた。そして次の年の末に英國に戻つて來た。そして一七八八年一月二十二日、ロンドンなるホーレス街で、子供を出産した。これが、第六番目のバイロン卿となつたヂョーヂ・ゴルドン、即ち詩人バイロンである。
 その後間もなくして、父のジョンは、債鬼に責められてロンドンに居たゝまれなくなつてヴァレンシエンの方へ逃げて行つてしまつた。そして其處で一七九一年の八月に歿した。後に取り殘されたバイロン夫人と幼兒のゴルドンは、僅かに一年百五十ポンドの手當金を遺されたのみであつた。



バイロン家系図
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『バイロン伝』を元に作成した家系図。英語文献にあたっていないので、正しい保証はありません。
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2009年01月04日

『バイロン伝』第二章 1/4

第二章 幼時及び學校生活

 それから間もなく、バイロン夫人は幼兒のゴルドンを伴つて、スコットランドへ行つた。そして其處にゐる親類の家へ暫く滯在してゐた後で、アベルディーンの或る小さな家に住むことになつた。それが一七九〇年のことである。
 するとヴァレンシエンの方へ逃げてゐた父のジョンが其處へ戻つて來て、同居する事になつた。しかしジョンとその妻の激しい焦々しい氣性のために、この同居生活はうまく行かないで、遂に、別居しなくてはならぬやうになつた。そしてジョンは同じアベルディーン町の他の家の室を借りて其處に住んでゐた。しかし幾何も無くして再びフランスへ去つた。バイロン夫人は、この放蕩で金使ひの荒い夫がゐなくなつたので、少なからずほつとした。然しさすがに、ジョンがフランスで客死したと言ふ報知に接した時には、ひどく哭き悲しんだと言ふ。
 彼女の性質には、傲慢な、衝動的な、わがまゝな點があつた。そればかりでは無い、ヒステリカルであつた。彼女はいつも自分の祖先の事や、自分の身分の事を誇つてゐた。彼女の愛も怒りも、ともに大袈裟であつた。彼女の心は、一時間といへども落着いてゐると言ふ事が無かつた。そして自分の夫のジョンを、半ば崇拜し、半ば憎んでゐた。彼女は自分の一人子のバイロンに對しても同樣であつて、舐めるやうに可愛がるかと思へば、その後で直ぐ叱りとばした。
「君のお母さんは馬鹿だね!」と、バイロンに向つて一學友が言つた事がある。するとバイロンは、彼獨特の調子で、悲しげに、
「僕もそれは知つてゐるさ」と答へた。
 實にバイロン程立派な家系に生れた詩人は居ない。しかも又バイロン程惡い血統に生れついた詩人も居まい。
 幼時のバイロンは、感情が激しくて、陰鬱な、權力嫌ひだつた。しかも一方、人の親切に對しては無條件に服すると言ふ性質があつた。この性質は、彼の一生を通じて續いたところのものである。
 或る時の事だ。彼は着てゐる着物を汚した、それを見て彼の乳母が叱りつけた。すると幼いバイロンは、石のやうに默つたまゝ、その着物をびり/\と破つてしまつた。
 すべてがそんな風であつたが、自分に親切にして呉れる人には柔順であつた。母の妹にあたるメイ・グレイと言ふ人がゐたが、この人はバイロンを可愛がつて呉れた。それで、この人の言ふ事はよくきいた。幼時に於ける彼の聖書に就いての、特に詩篇に就いての知識は、このメイ・グレイの教育に負ふ所が多かつた。當時バイロンは、宗教の事を根掘り葉掘り彼女に訊ねたと言ふ。
 父も母も生きてゐたとは言ふものゝ、幼時のバイロンは、事實上に於ては孤兒であつた。それに天性の感情の激しさを祖光から受繼いでゐた。しかもそれのみでは無かつた。もう一つ彼には生涯つきまとつた重荷があつた。それは彼が跛者であつたと言ふ事である。バイロンは自分が跛者であると言ふ意識から生涯苦しめられた。そして彼の作品には、常に彼のこの意識が現はれてゐる。
 性格に依つては、こんな事は何でも無いことである。ウォーター・スコットは跛者であつた。ミルトンは盲目であつた。しかもスコットの作品に、彼が跛者であつた事を推測させるやうな個所はいさゝかも無い。ミルトンの盲目も、傑れた諦らめの詩の主題にこそなれ、別にそれ以上には、作品の上に影を落してゐない。それがポープになるとさうは行かない。われ/\がポープを眞に理解するためには、彼が不具者であつた事を知つてゐなくてはならぬ。バイロンもこの點ではポープと同じである。
 バイロンの跛者になつた原因は明瞭にわからない。出産の時か、極く幼い時に、どうかして脚をひどく折り曲げて、それが其儘になつたらしい。それを治療しようと思つて、深靴を穿かしたり、繃帶を卷いたり、その他いろ/\の手段が取られたが治らなかつた。反對に却つてひどくなつた。
 自分が跛者であると言ふ意識は、彼には極く幼い頃からあつた。曾て、バイロンの乳母の友達が、バイロンの事を、
「何てこのお子は綺麗なお子だらう。しかしお可哀想にこんな脚をして」と言つた事がある。それを聞いた幼いバイロンは、眼を怒らし、子供用の鞭で、その女を撲りつけながら、
「その事を話すな」と叫んだ。
 母自身、はげしい發作を起して、少年のバイロンが室内を笑ひながら逃げまはるのを掴まへようとして、「お前は、ほんとにジョンのやうに惡い小犬だよ」と言ひ/\した。そして彼のことを「跛の餓鬼」と呼んだ。──このことはバイロンの作『造り變へられた不具者』の初めの場面にほのめかしてある。
 彼は後年、他に盛名を歌はれてからも自分が跛者であると言ふ意識のために苦しみ續けた。彼はロンドンの乞食や街掃除人までが自分の跛を嘲つてゐるかのやうに想つた。舞踏を極端に忌み嫌つた。そして運動には水泳と乘馬を選んだ。水泳や乘馬では自分が跛であることが目立たないからであつた。死んでからまでも、自分の跛の足を人に見られるのを嫌つた。
 一七九二年、即ち彼の五歳の時、バイロンはバワースと言ふ人の經營してゐる學校に入學させられた。然し其處では極く初歩の讀み書き位を習つたのみであつた。次に、彼は、熱心な怜悧な牧師のロスと言ふ人の手で教育された。この人からはローマ史の初歩を教はつた。バイロンはローマ史中でも特にレヂラス(Regillus)の戰ひのくだりには特別の興味をおぼえた。後年バイロンが成人して、タスカラムの山上に立つて、レヂラスの小さな圓い湖を見下しながら、當年の自分の幼い熱心さと、先生のロスの事を思ひ出してゐる。ロスの次には、パターソンと言ふ家庭教師の手にかゝつた。
「彼は、非常に眞面目な、沈鬱な、しかも親切な若者であつた。彼は、自分の家の靴職人の息子であつたが、立派な學者だつた。彼から私は公立學校へあがるまで、ラテン語を教はつた。公立學校で四年級まで進級した時に、伯父が死んだので私は英國へ呼び戻された」とバイロンが書いてゐる。
 バイロンの少年期の學校時代に就いては、これ以上には殆んど何の記録も殘つてゐない。唯いろいろな斷片的なヒントから察するに、彼は、學術的な學科はあまり得手では無く、級中では劣等生の方だつたらしい。又別に優等生にならうと思ふ功名心も持つてゐなかつたらしい。然し、歴史や物語には著しい興味を持つてゐた。特に、『アラビヤ夜話』を耽讀した。彼は手習ひなぞは碌々しなかつた。數學は嫌つた。短氣で、冒險好きで、勝負事好きで、負けず嫌ひで、しかも情の深い、怒りつぽい性質のために、先生からも、學友達からも知られてゐた。
 一七九四年に、第六番目のバイロン卿となるべき彼の從兄がコルシカの戰爭で戰死をした。そのために彼はバイロン卿の第二の後繼者となつたわけである。一七九七年のことだが、或る時、一友人が彼に向つてお世辭に、
「その内に君の演説を衆議院で聽けるわけだね」と言つた。するとバイロンは、
「衆議院で演説なぞしたくないよ。やるんだつたら貴族院でやるさ」と言つた。
 その言が的中して、その次の年に、第五世のバイロン卿であるヰリアムが死んで、バイロンが第六世のバイロン卿になつた。その時バイロンは餘程嬉しかつたものと見えて、口を利く事も出來なくなつてワツと泣き出した。
 この時代にバイロンは、その年下の從妹なるマリー・ダフと戀に落ちた。バイロン自身の言によれば、マリーに戀をしたのが彼の九歳の時だと言ふ。彼はマリーをいぢめつけては、無理やりに自分にあてゝ手紙を書かせた。そして十六歳になつた時に、母から、マリーが他の男と結婚すると言ふ話を聞かされて、殆んど氣を失はうとした。然し彼のマリーに對する戀愛が眞に戀愛としてそれ程深いものであつたかどうかは判然としない。と言ふのは、詩人の場合に於ては、このやうな幼い戀愛は、往々にして後年の想像的な囘想の中で、誇張されるものだからである。



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2009年01月05日

『バイロン伝』第二章 2/4

 一七九六年、彼はアベルディーンで猩紅熱にかゝつた。それが癒ると、母に連れられてバラターに行つて靜養した。すつかり身體が囘復すると、彼はよく方々を歩き廻つて時を費した。當時に就いて彼はかう書いてゐる。
「自分の山嶽地方に對する愛好は、この時代から始まつてゐる」
 しかしバイロンは、その肉體上の不具のために、山登りはあまりしなかつた。これは彼の乳母が確言してゐる點である。
 スコットランドと彼との關係に就いては、興味深いものがある。バイロン傳記者中最も注意深い一傳記者が、次のやうに言つてゐる。
「バイロンは、第一のギリシヤ旅行に於ても、ゴルドン族の格子縞の服を着て出かけたが、しかも彼の心意の傾向、彼の詩の性質は、決してスコットランド風のものでは無い。スコットランドの國風は、偏狹な地方的な要素を含んでゐる。それに反してバイロンの詩人としての性格は、普遍的な、世界的なものであつた。彼は一地方一地方に對しては別に愛着は感じなかつた。スコットランドの歴史を學んだりした事は彼は一度も無かつた」
 これによく似通つた事をトーマス・キャンベルバーンズに就いて言つてゐる。
 つまりバイロンは、スコットランドに育ち、スコットランドの空氣を呼吸したが、しかも彼の詩人としての天分は、それから拘束されない程廣かつた。
 一七九八年の秋に、母は、今迄持つてゐた家具類の一切を七十五ポンドで賣拂つて家をたゝんでしまつた。そして彼女と、少年のバイロンと、バイロンの乳母は南の方へ旅に出た。そして元の住居のニューステッド・アベイの方へ戻つて來たが、家の荒廢があまり酷くて住めないので、ノッティンガムに移り住んだ。この旅行に就いてはバイロンは取立てゝ言ふ程の印象は持つてゐなかつた。僅かにロック・レヴンの事とニューステッドの事を憶えてゐるのみであつた。
 ノッティンガムで、バイロンは跛の足の治療を受けた。そして酷い目に逢つた。治療をやつたのはラヴェンダーと言ふ山師醫者で、彼の足に油を塗つて摩擦し、木製の機械で締め上げた。しかも跛はちつともよくはならなかつた。これに就いて二つの逸話がある。一つは、當時バイロンの專任家庭教師だつたロヂャース(この人と一緒にバイロンはヴァーヂルシセロの著書を讀んでゐた)がバイロンに同情して、
「ねえ、あなたがそんなに苦しさうな目に逢つてゐるのを見ると、私は氣持が惡くてなりません」と言つた。するとバイロンは、
「心配しないで下さい、ロヂャースさん、僕は苦しがつたりはしないから」と答へた。
 もう一つの逸話と言ふのは、或る時のことバイロンは、紙の上に何が何だか譯もわからぬ落書をして、醫者のラヴェンダーの所へ持つて行つた。そして眞面目くさつて、「これは何處の言葉だらう」と訊ねた。するとラヴェンダーが、
「これやイタリー語です」と答へた。それを聞くとバイロンは、腹を抱へて笑ひころげた。
 バイロンは「自分が詩を作り始めたのは一八〇〇年だ」と言つてゐる。即ち十三歳の時である。その前年に、バイロンの大好きであつた從姉のマーガレット・パーカーが不慮の死を遂げた。このマーガレットに就いては後年バイロンは哀悼歌を作つた。彼女の追憶のことを彼は次のやうに書いてゐる。
「自分は、この從姉との短かい親密の間の彼女の透徹した美しさと、氣性の優しさに匹敵するやうなものを他に想ひ起す事が出來ない。彼女は、あたかもその身體が虹で出來てゐるやうな容子をしてゐた、──彼女のすべては美しく、平和であつた。私の彼女を慕ふ情は、例の通りに私は作用した、──私は眠る事が出來なかつた。私は物を食べる事が出來なかつた。私は休息する事が出來なかつた。一度彼女に別れると、今度は何時になつたら逢へるかと思ふ事のみが、當時の私の生活の主要部分だつた。然し當時の私を馬鹿だと言へば、現在だつてあの時よりいくらも悧巧ぢや無い」
 そのちよつと以前のことだが、前に述べたバイロンの幼年の戀の相手なるメイ・グレイが、その故郷に歸ると言ふ時にも、バイロンは隨分悲しんだ。彼女との別離に際して、彼は自分の持つてゐた初めての懷中時計と、エディンバラのケイの描いた、自分の小畫像ミニアチュアを彼女に與へた。別れて後も、時々彼女とは手紙のやり取りを續けてゐた。
 バイロンは、自家の僕婢達からは、いつも愛された。バイロンの乳母は後年、良縁があつて他處に嫁した。バイロンの傳記はこの乳母が一八二七年にその臨終の床で、アベルディーンの醫師エウィングに語つた事から、かなり負ふ所があつた。
 一七九九年の夏に、彼はロンドンにやられ、ペイリーと云ふ醫師の手に委託され、ダルウィッチにある寄宿學校に入れられた。この學校は、グレンニー博士の管理してゐる學校であつた。當時バイロンは、ともすれば運動競技に熱中したために、醫師のペイリーは「少し控へ目になさるやうに」と言ひ言ひした。グレンニー博士はバイロンを可愛がつて面倒を見てやつたらしい。バイロンも愉快に勉強した。特に歴史を讀んだ。聖書と親しんだ。英國の詩人の詩集などもチョウサーからチャーチルまで、何度も繰り返して讀んだ。
 一方バイロンの母なるバイロン夫人は、その頃收入の方も、以前よりはかなり潤澤になつて、スローン・テラスに住居を構へてゐた。彼女は毎週土曜日から月曜日までバイロンを學校から呼び寄せて、自分と一緒に暮させた。時には呼び寄せたまゝ何週間も學校へは戻さない事もあつた。
 バイロンは、貴族を相續して以來、高等法院の被後見人になつた。そしてカーリッスル卿の後見を受けることになつた。この人は前にも言つたやうに、ジョン海軍大將の甥であり、バイロンの大伯父さんの息子である。カーリッスル卿も詩人になりたいと思つた。その作にかゝはる父の『復讐』なる悲劇は、時の文學者ジョンソン博士から、かなりの賞讃を受けたものである。然しこのカーリッスル卿とバイロンとの間は、最初からうまい具合には行かなかつた。
 その内に、母の希望でバイロンはハロウの公立學校に入れられた。そして其處に一八〇五年の秋までゐた。このハロウでの第一の暑中休暇の時である。バイロンは母と共にチェルテンハムへ行つた。其處で、スコットランド風な迷信を多分に持つてゐる母は、バイロンの運命を易者に見て貰つた。易者は、「この方は二度結婚なされます。二度目のは外國人となされます」と言つた。



ロック・レヴン⇒ロッホ・レヴン、レヴン湖。
Loch Leven - Wikipedia, the free encyclopedia
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