2007年11月20日

『不信者』20/34

  軍刀は柄元まで碎かれてはゐるが
 彼が流した血に滴りながら
 不忠な刄を周つてぴくぴく動いて
 その切り離された手にしつかりと握られてゐる。
 遙か後方に彼の頭巾は轉がつてゐて
 最も堅固なとぐろ卷きの天邊を二つに割られてゐる。
 寛やかに長々と着こなされた外衣は
 偃月刀に切り裂かれて、その日が暴風に終る
 その前兆のどすKい縞目を引く
 曙の雲のやうに眞紅の色に染まつてゐた。
 彼の更紗木綿の斷片が引つかかつてゐた
 どの林叢にも生々しい血糊がついてゐた。
 胸は無數の刀瘡で引き割かれて
 背を地につけ、顏を天に向けて、
 死んだハツサンは横はつてゐる――開けたままの眼は
 まだ怒氣を含んで敵を睨むでゐるさまはさながら、
 彼の運命を定めた時が過ぎたあとまで
 消すことの出來ない憎惡を殘してゐるやうだつた。
 そして死躰を屈み腰にみてゐるその敵の額は
 血まみれて死んでゐる人の額と同じやうに怖ろしかつた。――

  ×  ×  ×  ×  ×

 「さうだ、レイラは浪の下に眠つてゐるのだ。
 が、彼奴の墓はもつと赤いものにしてやるのだ。
 レイラの精神が刄先を充分に尖らせて、
 あの殘忍な心に思ひ知らせたのだ。
 彼奴はまほめつとに呼びかけたが、まほめつとの力は
 復讐に燃える不信者には効目はなかつた。
 彼奴はあらの助けを求めた、だがその言葉は
 神には聞えなかつたし、注意もされなかつたのだ。
 愚昧な回教徒め、貴樣きさまの祈祷が神意に適つて
 レイラの祈祷が容れられない筈があるものか。
 時機の來るのを私は見守つてゐた、此度は彼奴の番だ。
 彼奴を捕へる爲に私は山賊と結托したのだ。
 憤怒は晴れた、やつつけて了つたのだ。
 ではもう私は出掛けるが、獨りぼつちで行くのだ。

  ×  ×  ×  ×  ×
   ×  ×  ×  ×  ×


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2007年11月21日

『不信者』21/34

  草を食む幾頭の駱駝の鈴が鳴つてゐる。
 ハツサンの母は高い格子窓から眺めて
  眼下の青々とした牧場に撒かれたやうに
 夕の露が置かれてゐるのを彼女は見たし
  微かに瞬いてゐる星屑も見た。
 「もうたそがれ──彼の行列も近づいてゐるにちがひない。」
 彼女は庭の亭に休息を取ることも出來ずに
 一番高い塔の窓格子からぢつと外を眺めたのだつた。
  「何故彼は來ないのだらう、馬は駿足ではあるし、
 暑さに避易ひるみはしない筈。
 約束の進物を花嫁に何故送つては來ないのだ。
 彼の心が割合に冷たく、馬が餘り速くないのか、
 ああ、この非難は間違つてゐる、あしこに見える韃靼人は
 間近くの山の上端に到達してゐて、
 用心深く險路を降りはじめ
 もう谿のうちへ向つて來るが
 鞍に前穹に進物をつけてゐる。
 馬が遲いなぞ考えるのではなかつた。
 はるばる急いで來て呉れた
 返禮に贈り物を充分にしてやりませう。」

  ×  ×  ×  ×  ×

 山を降りて來た韃靼人は門で馬を下りたが、
 疲れきつてゐて、立つてはゐられないやうだつた。
 黝ずんだ彼の顏が苦惱を語つてゐた。
 だがそれは疲勞の爲めかも知れなかつた。
 彼の衣服に斑々と血の汚點がついてゐたが、
 その血は馬の腹からの血であるかも知れなかつた。
 彼の肌衣から取り出した記念の品品──
 や、や、これは! ハツサンの割られた兜のはちまん座、
 裂れた土耳古帽と血染めの肌衣かふたんだつた。
 「奧方、怖ろしい花嫁を主公は迎えられたのです。
 敵の慈悲なさけで私は助けられたのではありませぬ。
 血に染まつた抵當かたみ物を携えて來る爲めなのです。
 血をこぼされた勇者に平和がありますように、
 血をこぼした不信者に禍がありますように」

  ×  ×  ×  ×  ×

  極めて粗末な石に土耳古帽が刻まれて、
 故人を追悼する古蘭の詩句も
 今は殆んど讀まれなくなつてゐる
 雜草の生ひ茂つた一柱の墓石は
 あの淋しい谿の犧牲者の一人として
 ハツサンが戰ひ死んだ場所を指し示してゐる。
 めつかに跪き禮をした回教徒
 禁ぜられた葡萄酒を口にしなかつた回教徒
 あらひゆうといふ嚴肅な聲を聽いて、
 更に新しく唱へ始める祈祷の時
 かの靈廟の方に顏を向けて祈つた回教徒の
 誰にも勝つて誠實な回教徒がそこに眠つてゐるのだ。
 でも彼の故國にあつては知る人もない
 一人の他國人の手にかかつて死んだのだ。
 だが、彼は武器を手にして戰ひ死んでその恨みは
 少くも相手を殺して、晴らしてはもらへないのだ。
 でも極樂の美女達はその部屋部屋で、
  彼が行くのを待ちあぐんでゐるのだし、
 その女菩薩達の美しいKい眼は
  いつも輝いて彼を迎へ見るだらう。
 その極樂の麗人達が來る──告Fの頭巾を振ながら
 それそれに勇者を迎へて接唇を一つ與へるのだ。
 不信者を敵として戰死する勇者こそ
 極樂の女部屋に入る最適人者なのだ。

  ×  ×  ×  ×  ×
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2007年11月22日

『不信者』22/34

  因果を思ひ知らせる、地獄の鬼の大鎌に刈られて
 間違つた不信者はのたうたなければならないのだ。
 その鎌の呵責を脱れて淋びしく獨り
 閻魔の王座のあたりをうろつかなければならないのだ。
 いつも燃え熾つて、消すことの出來ない地獄の劫火に
 お前の心は迫められ、燒かれて居なければならないものだ。
 内心の地獄の拷問呵責はとても
 聽くにも耐えず語ることも出來ないものだ。
 だが、先づ最初に吸血鬼として送られ
 お前の死骸は墓から割き離されねばならないのだ。
 それからお前の故郷に氣味の惡るい出沒をして
 妻子眷族の血を吸はなければならないのだ。
 お前の娘の、お前の妹の、お前の妻の
 生命の流れを眞夜中に吸ひ干さなければならないのだ。
 是が非でも生きてるお前の青ざめた死骸に
 食べさせる馳走に嫌な思ひをしなければならないのだ。
 お前の爲に死ぬものがまだ息のあるうちに
 その惡鬼が自分達のおやだと知るだらう。
 呪ひつ呪はれつ涜神の言葉を取り交はしながら
 お前の家族の美しい花は、いづれも立ち枯れに枯れるのだ。
 だがお前の犯す罪惡の爲めに、死なねばならないものの一人、
 わけてももつとも年の少ない、もつとも可愛い娘がお前を
 父と呼んでお前を祝福するだらう──
 その言葉が、お前の心を火炎に包むだらう。
 でもお前は爲事を遂げて、娘の頬の最後なごりの色を
 娘の眼の最後なごりの閃らめきを、目に止めねばならないのだし、
 生命を失つたあを色を冷え冷えと包む、
 とろりとした最後の眼つきを、見なければならないのだ。
 それから、その金色の頭髮の捲き毛を
 穢れたお前の手で毟らなければならないのだ。
 その髮の一房を生あるうちに剪むだなら、
 深い愛情の抵當として身につけられゐるものを、
 今はお前の苦悶の記念物にお前は持つていつてしまふのだ。
 お前の血を分けた一番可愛いものの血で濡れてお前の
 齒ぎしる齒から、凄じい唇から、血が滴り落るだらう。
 それからこつそり、陰氣なお前の墓へ歩いて行つて──
 惡鬼羅刹と一緒になつて、亂舞するのだが、
 惡鬼だつて羅刹だつて、もつともつと罰當りの
 幽靈おばけに避易して逃げてしまふだらう。

  ×  ×  ×  ×  ×
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2007年11月23日

『不信者』23/34

 彼處にゐる孤獨な希臘僧かろやあはどう言ふ名前の男なのだ。
  彼の顏を私自身の國で前に見たことがある。
 それは大分むかしのことだが、あんな勢ひで
  馬を飛ばす騎手を私はいまだ嘗つて
 見たことがない程、まつしぐらに淋しい海岸を
 馬を驅つて行くあの男を私は見たのだ。
 一度丈見た顏だがでもその時分の
 その顏には内心の苦悶の色がありありと表はれてゐて
 二度と看過すことの出來ないものだつたが
 死の刻印を捺したやうに彼の額には
 それと同じ恐ろしい精神が今も示されてゐるのだ。

  ×  ×  ×  ×  ×

  「私達の僧侶の仲間入りをしてから、
 それは六年前の夏のことだ。
 彼が言はうとはしない何か怖ろしい行爲の爲めに
  この僧院に居るのが彼の慰めになるのだ。
 だが、私達と夕方の祈祷を共にしないし
 懺悔の椅子の前に跪つきもしなければ、
 香の煙が立ち昇らうと、唱歌の聲が響かうと
 一向に彼は頓着しないで
 僧房の中に獨りで考え込んでゐるばかり、
 その宗教も民族も等しく不明なのだ。
 回教の土地から海を越えて來て
 沿岸から此處へ上陸して來たのだ。
 だが土耳古民族らしくはないし
 顏を見るとどうしても基督教徒に違ひないのだ。
 その變節を後悔してゐる
 迷つた背教者だと私はおもひたいのだが、
 合點のいかないのは、私達の聖廟に參詣もしないし
 神聖な麺麭と葡萄酒の食事も攝らないことだ。
 莫大な進物をこの修道院に持つて來たので
 院長殿のご機嫌はよかつたのだが
 私が院長だつたら、もう一日だつて
 あんな見知らない男を滯在とめては置かないし
 停めておくにしろ、懺悔室に押し込めて
 永久にそこに住むやうにしてやるんだがな。
 彼の男の夢まぼろしの呟きといへば
 海の底に深く沈められた女
 鏘然と鳴る軍刀の音、敗走する敵の兵士
 復讐かたきをとげた意恨、死にかけてゐる回教徒のことなのだ。
 彼はよく崖の上に立つことがあるんだ、
 そして腕から切り落されたばかりの
 血だらけの手首を見てゐるやうに譫言を言ふのだ、
 彼の外には誰にも見えないのだが、
 その手首が墓へ彼を招いて、
 海の中へ跳び込めと誘ふんだ。」

  ×  ×  ×  ×  ×
   ×  ×  ×  ×  ×
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2007年11月24日

『不信者』24/34

  薄Kい彼の僧衣の頭巾の下にぎろりと光る
 眉を寄せた彼のしかめ顏は此の世のものではない。
 見開いたあの眼の閃光りを見ると
 過ぎ去つた年月がどんなに苦しかつたものかが判る。
 その眼の色は變化があつて、はつきりしたものではないけれども、
 その眼を見た人は見なければよかつたと思ふことがよくある。
 といふのは無名の何とも言へない魔力が潜んでゐて
 それ自體名状しがたいものだが、優越を請求め、優越を保つてゐる
 高いそしていまだに抑え切れずにゐる、精神を語つてゐるからだ。
 翼を震はしながらも見据えてゐる蛇を
 逃げることの出來ない鳥と同じに
 此の男に見られた人は身慄ひはするけれど
 耐えられないその視線をはづせないやうなものなのだ。
 伴れがなく、ひよくり遭ひでもした僧は
 生怖ろしくなつて、その瞥見と微苦笑から
 奸智と恐怖を傳染されでもしたやうに
 喜んで身を退きたいと思ふのであつた。
 愛想笑ひをすることも、そう度々ではなかつたが、
 笑へばそれは彼自身の不幸を嘲けるに
 過ぎないので、見るも慘めなものだつた。
 蒼ざめたあの唇は、卷いて、ぴくぴく震へて、それから
 永久に笑はないといふやうに締まつて終ふ。
 まるで彼の悲哀或は輕蔑がもう二度と笑ふまいぞと
 彼に命令を下したやうなものだつた。
 その方が餘つ程よいのだ──斯んな薄氣味の惡い笑ひは
 歡喜からは決して生れては來るものではないのだ。
 だがその顏に嘗つてどんな感情が動いたか
 その跡を覓ねたらなほなほ悲しいものであつたらう
 歳月がまだその顏を固定したものにしてはゐないのだ。
 邪惡とまぢつてよりあかるい痕跡が殘つてゐるのだ。
 必しも褪めはててはゐない顏の色が
 知性に動いて犯した數々の罪惡によつてですら
 墮落しきつてはゐないその知性を語つてゐる。
 一般の世の人達は氣紛れな行動とそれに適はしい
 破滅の暗らい影を見るばかりだが、
 近く寄つて能く見る人の目につく筈の
 高貴の血統と崇高な精神が表はれてゐるのだ。
 ああ、そのどつちも悲哀で變へられ、犯罪で汚されて
 授かり効はなかつたけれども
 さうした高貴な贈り物附きの貸家は
 平凡なありふれた貸家ではなかつたのだ。
 それでもやつぱり殆んど恐怖と變らない感じを以つて
 さうしたものを視る眼はそれに惹きつけられるものだ。
 行きずりの人逹は朽ち、廢れ、崩れ破れた
  屋根のない小舍に足を停めはしないのが常だが、
 戰爭であるひは暴風で傾いた城の櫓は
 一つでもまだ鋸壁が殘つてゐる間は
  異國人えとらんじえの眼を要求めもし威嚇をどしもする。
 蔦の這ひ纒つた門と寂しく立つた柱がそれぞれに
 過去の榮華を傲然と辯護をしてゐる。

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