2007年11月15日

『不信者』15/34

  色Kいハツサンは妻妾の部屋には寄りつかず
 女には眼を向けもしない。
 爲慣れない狩りに時を使つてゐながらも
 狩り人のその歡喜をわかつこともない。
 彼の宮殿にレイラが住まつてゐた時は
 ハツサンは斯んなに家に居つかないことはなかつた。
 レイラはもう邸宅やしきには居ないのか?
 その話しならハツサン丈しか話せないのだ。
 私達の市では妙な噂が飛んでゐる、
 ラマザンの祭りの日の陽が落沈んで
 そこかしこの寺院てら寺院の長尖塔から閃めく
 無數の灯火らんぷが廣大な東洋の國トルコの中に
 バイラムの祭を告らせた時の
 その夕暮に、レイラは出奔にげてしまつたのだ。
 その晩、彼女は風呂場に行く風をして出てしまつたのだ。
 怒に燃えて、ハツサンは風呂場を探したが居なかつた。
 ジオジア人の小姓風に姿をやつして彼女は、
 主人あるじの激怒を脱れたのだつた。
 回教の君主ハツサンといえどもどうしようもない
 あの不信の異教者と共に彼に耻を與へたのだつた。
 そのことをハツサンは考えて見ないこともなかつた
 だが、レイラがいつも可愛らうたく、いつも美しく思はれて、
 レイラをすつかり信頼しきつてゐたのを
 裏切つたのだから殺されても仕方がなかつたのだ。
 その夕ハツサンは寺院に出向いて
 そこから自分の凉亭での食宴に出かけたのだつたとは、
 預かつておきながら、その預かりものの監視をおこたつた
 ぬびあ人の女どもの言ふところなのだつたが、
 他の人達の話しでは、その夜、
 青白く照らす月の震へる光で
 眞Kな馬に跨つた異教じやわあ人が見られたが
 血塗れの拍車をかけて海岸沿ひを
 獨り馬を急がして行つただけで
 處女をんなも小姓も、馬の後には乘せてはゐなかつた。

   ×  ×  ×  ×  ×


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2007年11月16日

『不信者』16/34

  レイラの眼のKい魅力を話しても効はあるまい。
 だが、羚羊の眼をじつくり眺めて見たら
 それがお前の想像の助けになるだらう。
 その羚羊のやうな大きな眼、惱ましくも暗い眼、
 だが、じやむしつどの名高い寶石のやうに
 眼瞼の下から射出する火花にきらきらと
 魂がきらめいて出て來たのである。
 さうだ、魂だ。教主が言ふやうに、形骸はただ
 息のかよつてゐる土塊に過ぎないのであつたら、
 斷じてさうではないと私は言はう。
 極樂の淨土をすぐ眼の前にひかへてその
 淨土の女菩薩が擧つて手招ぎをしてゐて
 下方は火の海、上方にゆらゆら搖れる
 アルシラツトの橋の上に私が立つたにしてもだ。
 噫 若いレイラの眼を讀むことが出來て
 それでも女といふものが土塊に過ぎず、
 暴君の色欲の爲めの魂のない玩具だと言ふ
 その信仰箇條のその部分をなほ信じるものがあるだらうか?
 回教の法典を説く人達が熟く彼女に目を止めて見たなら
 彼女の眼から不滅の神の光が輝いたと云つたかも知れない。
 清らかに褪せることのない彼女の頬の上に
 柘榴の若花が、いつも瑞々しく
 赤く燃えて匂を散らしていた。
 彼女の髮の毛はヒヤシンスの紫色むらさきに流れて
 とりあげずに疊んでおかれたとき、
 廣間の侍女達の中に立つて、
 そのだれにも立ち優つて見られて、
 その長い髮が拂つた大理石のゆかの上に
 輝々てら/\と光つた彼女の足は
 高山の雲から落ちて來て
 地上の汚れに染む前の霰よりも白かつた。
 若鳥の白鳥が氣高く水を泳ぐ。
 その白鳥のやうにさあかしあの女は地を歩むだのだ。
 さあかしあの美しい鳥の中の鳥の白鳥、
 その白鳥の居る水をかぎる堤を
  見知らぬ男が歩るいて通ると
 羽毛を逆立てて、白鳥は首を持ち上げて
 矜持ほこりの翼を張つて、浪を蹴る。
 その白鳥にも優つて持ちあげたレイラの首は白くすがしかつたのだ。
 斯う美しさを身につけて無遠慮に見る人の目を
 抑えるのだつた。愚者うつけの熟視もついには
 讃めるつもりだつた、その魅力に避易ひるむでしまふ。
 彼女の歩態もそういふ風に高雅で上品だつた。
 被女の情愛も配偶つれあひ者に甚だ優しいものだつた。
 彼女の配偶者嚴格なハツサン、彼は何者だつたのだ。
 嗟かはしくも、その名はお前には不釣合だつた。

   ×  ×  ×  ×  ×
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2007年11月17日

『不信者』17/34

  嚴格なハツサンは二十人の家來を伴ひ
 一路の旅に出て、家來はそれぞれに
 火繩銃と、無鍔の長劍を携へて
 壯士に最も似つかはしい武裝をしてゐた。
 先を行く首領もまた武裝をして
 劒帶に偃月刀を帶に釣つてゐる。
 その刀は叛逆者達が峽路を阨した時
 その逆賊の頭目を切つて、その血を吸はせたものであつて
 パルネの谷で起つた慘澹たる事件を
 歸つて話したものは殆んどなかつたのだ。
 ハツサンの腰帶に佩びた拳銃は
 その昔、士耳古の高官ぱしやが身につけたもので
 寶石を鏤め、黄金の飾りに盛り上つてゐたけれども
 盜賊でさへ、見ると怖氣を震ふものだつた。
 ハツサンはその身邊を離れていつた女よりも實意のある
 花嫁に逢つて縁談をすすめに行くといふ噂があるのだ。
 姦夫を室に引き入れるなんて、不貞な女ではないか、
 不貞よりも惡いのだ、異教者と通じるなんて!

  ×  ×  ×  ×  ×

  夕陽は山上にその名殘をとめて
 谿川にきらきらとひかつて、
 透き通つて、冷たいその快い水を
 杣人は祝福して飮む。
 のろくさと道を行く希臘人の商人も此處へ來ては
 その主人の餘り身近に宿を取つて
 内密の蓄財を氣にして震えながら、市街の中では
 求めても得られない安眠が出來もしやうし、
 群衆の中では奴隸でも、無人の境では自由であつて、
 人目のない此處では休息も取れやうし
 回教徒として飮んでならない、大杯をなみなみと
 禁止の赤葡萄酒で染めることも出來もしやう。

  ×  ×  ×  ×  ×

  黄色の頭巾が際立つて見える。
 最先を行く韃靼人は山峽に入つてゐる。
 殘餘の騎馬は長蛇の列をなしてあとに續いて
 長い峽道を徐かに廻つて行く。
 頭上高く一峰聳え立つて、そこに
 兀鷹が血に渇いて嘴を研いでゐるが、
 明日の朝の陽が射さないうちに、山を降りて來るだらう、
 鷹の馳走が今夜あるかも知れないのだから。
 足下の一河は冬こそ流れもしたが、
 夏の陽射しに涸れてしまつてゐて
 そこに生えてそこに枯れる灌木の叢の外には
 何にもない物淋しい水道が殘つてゐるばかりだ。
 中程の道の右にも左にも轉つてゐるのは
 灰色の御影石の小さく碎けた巖だが
 天の霧の衣を着た山頂から
 時の力か若くは山の電光に割かれて落ちたのである。
 といふのは、リアクラの山の嶺の霧が晴れたのを
 見た人は何處にも居ないのだから。

  ×  ×  ×  ×  ×
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2007年11月18日

『不信者』18/34

  その一行は遂に松林のあるところへ着く。
 「びすみら! もうだいじやうぶ、危險はないぞ。
 廣々とあすこに平野が見えるではないか、
 拍車をかけて、大急ぎにいそがうよ」
 軍曹はそう言つたが、と同時に
  一彈がひうと、彼の頭上に鳴つて
 最先をかけた韃靼人が落馬する。
  彼等は手綱を控えるいとまもなく
 ひらりひらりと乘手は馬を跳び降りる。
  だが三人はもう馬上の人となることはあるまい。
 手傷を蒙らせた敵の姿は見えない
  死にかけてゐる人が復讐を求めてもその効はないのだ。
 劍の鞘を拂ひ、騎銃を構えて
  馬を楯に、半は身を隱し
 馬具に寄りかかつたものもあつたし、
 手のとどくばかりの近い岩の後へ逃げて
 來るべき衝突を、待ちかまへたものもあつたが
 岩の屏風を敢えて棄てようともせず
 姿を見せない敵の箭に射すくめられて、
 傷つく爲めにむざむざ立つてゐるものはなかつた。
 だが嚴格なハツサンは下馬を輕蔑して
 一人だけ路を乘りすすめて行く。
 ぱつぱつと先頭に銃火が閃いて、
 見込んだ餌食の利益に今はなつてゐる。
 一つだけの道を盜賊の一族か
 確實に占據してゐることを明らかに告げる。
 するとあの怖ろしい髯を怒にうねらせ
 もつと怖ろしい火に眼を燃えたたせて
 「どこから彈丸が飛んで來やうと、それがなんだ、
 もつと血みどろの危機を脱して來てゐる俺だ。」
 すると隱れ場處を棄てて出て來た敵が
 彼の家來達に屈服を呼びかける。
 だが敵の劍よりも怖れられてるのは
 ハツサンの澁面と怒りの聲なのだ。
 彼の隊の人數こそ少なかつたけれど
 騎銃を捨てゝ劍を抛つものは一人もなかつたし
 降參まいつたといふ卑怯な聲を立てるものもなかつた。
 次第次第に近くなつて、今まで埋伏してゐた敵が
 はつきりとまともに見えて來る。
 そして松林を出外れて進みくる一人が
 軍馬に跨がつて躍つてゐる。
 血みどろの右の手に遠くまで閃らめいて見える
 見慣れぬ劍を振つて、一隊を率いる者は誰だ。
 「彼奴だ。彼奴だ。もう判つたぞ、
 蒼白い彼奴のひたいに見覺えがある。
 嫉ましい裏切の、助けになつた
 忌はしい眼付に見覺えがある。
 乘つてゐるK馬で彼奴だと判る。
 おのれの忌はしい信仰を捨てて
 山賊の服裝をして居たつても
 それで命が助かりつこはないのだ。
 彼奴だ、いつなんどきでも遭ひ効のある奴、
 死んだレイラの情人をとこ、罰當りの異教者だ。」

  ×  ×  ×  ×  ×
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2007年11月19日

『不信者』19/34

 一潟千里の勢いで川が眞Kくなつて
 直押しに大洋へ流れ込んで行くやうに
  それに對抗して、潮が動いて
 昂然と青柱を立てて、光つて
 川の流れを撃ち返すこと數十尺、
 泡を捲き沫を疊んで、水と水とが混る。
 旋る渦卷と割れて碎ける浪は
 冬の疾風に醒めて、怒號して荒れ狂ふ。
 火花と散る飛沫を貫いて、鳴りはためいて
 水の稻妻は海岸の上を閃めいて照らす。
 その白きこと言ふばかりもなく
 その轟く音の下に岸は煌然と震え搖く。
 斯んな風なのだ、──遭ひつつも浪は狂氣して
 川と大洋うみが迎へ合ふやうに
 相互の非行と、憤激と、宿命に驅られる
 一隊と一隊は斯んな風に落ち合ふのだ。
 ひ合つて震へる軍刀の鳴る音。
  遠くにとどろき、或は近くに鳴つて
  飛び來る遠彈丸が耳を掠めて
 どきどきする耳にその響を殘す。
 衝突と叫喚と戰ひの唸きが
  牧羊者の物語りに寧ろ似つかはしい
  その山峽に反響こだまする。
 縱令人數は多くなくつても彼等の戰鬪は
 助命もしなければ助命も求めない烈しいものなのだ。
 嗟、若い愛人同志が愛撫を頒け合ふために
 しつかり胸を抱き合せもしやう、
 だがしかし美が溜息をついて、許さうとする全てを求めて
 愛そのものが喘ぎに喘いでみたところで
 敵同志の最後の抱擁──
 戰つて、取つ組んで、絡み合つたが最後
 斷じて絡めた互ひの腕を弛めないその抱擁に
 憎惡が加へる熱の半分にも及ぶまい。
 友達は別れるために逢ひ、愛は誠實を嘲笑ふ。
 眞實の敵は遭つたが最後死ぬまでは離れないのだ。

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