2007年11月05日

『不信者』05/34

 死の音訪れの最初の日の過ぎないうちに、
 危險と苦悶の最後であつて
 悲しい空無の最初の日が過ぎないうちに、
 (衰退の抹殺の指が美貌の名殘りを
 猶とどめてゐる筋々を消しきらないうちに)
 死人のむくろに身を屈めて
 そうして温和な天使のやうな樣子すがた
 安らかに眠る憩ひの欣喜を
 穩やかな頬の無氣力の痕を殘して
 固まりながらも物軟らかな面影に
 目を止めて見た人は
 悲しい被物をした眼がなかつたら、
  もう燃えもせず、誘ひもせず、涙も流さない
  眼がなかつたら――冷たい變化しない額がなかつたら、
 その額の生活機能終息の無感覺を見守る追悼者は
 その運命を頒けられでもするやうに、
 怖ろしがりながらも、眼を外らさずに見まもる。
 さうなんだ、是等のことさへなかつたら、
 少時は、さうだ、頼みにならないが一時は
 彼はまだ死の力を疑ふかも知れない。
 死によつて示された最初の、そして最後の顏付きは
 斯くも清らに、斯くも靜に、斯くも輕く封印を押される。
 此の海岸の樣相はさういふものなのだ。
 希臘には相違ないが生きてる希臘ではもうないのだ。
 かうも冷たく匂はしく、かうも怖ろしく麗しい。
 私達が吃驚するのは、其處には魂がないからだ。
 別れの息と一緒に別れきつては終はない
 死んだ女の美しさなのだ。
 怖ろしい程のにほひを持つた美しさ、
 墓場まで附きまとふあの色の美しさ、
 表情の最後の褪せて行く光りなのだ。
 腐朽を周つて去りやらぬ暈の金色、
 過去の感情の告別の輝きなのだ。
 輝いてもその光りが育んだ大地に
 もう熱は與えない天來の火群の火花なのだ。


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2007年11月06日

『不信者』06/34

  忘れられてはゐないあの勇士の住んだ國土よ!
 平野から山の洞穴へかけて、その國土一帶は
 自由の民の故郷であり、榮譽ある人の墓所であり、
 偉大なる者の神社であつたのだ。
 希臘の遺物がただこれだけの筈はないのだ。
 近づいて見るがよい、卑怯卑屈な奴隸よ、
  どうだ、此處がセルモピレエではないか、
 周圍を洗ふ青い浪は昔ながらの青さだ。
  噫、彼の自由の民の奴隸根性の、子孫達よ、
 此處は何と云ふ海なのだ、何と云ふ海岸なのだ?
 サラミスの灣、サラミスの岩だらう。
 是等の風景も、その物語も知らない人はないのだ。
 起て、起つて再びお前の物にするのだ。
 お前達の祖先達の死灰から
 祖先の熱情の火の燃え屑を攫み取るがよい。
 そしてその戰ひに戰ひ死ぬものは
 お前達の壓制者が聞いて身震ひをする
 一つの怖ろしい名を祖先のそれに附け加へて
 息子達に一つの希望、一つの名聲を殘すだらうし、
 息子達もまた耻辱より寧ろ死を欲すだらう。
 何故なら、自由の戰ひは一度やりだしたら最後、
 血を流すおやから子へ遺し傳へて
 縱令屡々敗れても、いつかは勝つものだから。
 希臘よ、お前の現在の記録に證據をとどめて、
 數百年の永き時代に證明するがよいのだ。
 塵挨だらけの暗に隱されて王者達が
 無名の金字塔を殘してゐる間に
 お前の英雄達は、縱令その墓が支柱さへも
 失つて終つてるのが一般の運命ではあるけれど、
 その墓より遙かに偉大な記念碑とも云ふべき
 祖國の山々を自分の物だと主張する權利を持つてゐる。
 お前の國の詩の神は他國人の眼に
 亡ぼすことの出來ない人達の墓をそこに指し示すのだ。
 隆んであつた名聲が耻辱に墮ちて行つたその一歩一歩を
 尋ねることは悲しく、話したら長いことであらう。
 お前の魂が自分で墮落したまでは──もう云ふまい──
 どんな外敵もそれを抑へることは出來なかつたのだ。
 さうだとも、自己抛棄がやすやすと惡者の束縛と
 專制者の支配を受けるに至らしめたのだ。
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2007年11月07日

『不信者』07/34

 お前の國の海岸を踏む人は何を語り得ようか。
  お前のいにしへの古い譚もなければ、
 お前の國のをとこたちがお前の國を辱めなかつた時の
 遠い昔のお前の詩の神のやうに高く、
  詩の神が翼を張つて、翔けり得る話題もない。
 お前の豁々のうちに育まれた人達の
 その火のやうな魂が息子達を導いて
  崇高な行爲をさせたかも知れないのに、
 搖籃から墓へ這つて行く。
 彼等は奴隸なのだ、奴隸のまた奴隸なのだ、
 ただ罪惡へ動くばかりの、一切無感覺の奴隸なのだ。
 人類を汚す邪惡と言ふ邪惡の色に染まつて
 野獸を殆んど撰ぶところがないのだ。
 野蠻な徳すら身につけてはゐず
 自由な或は雄々しい度胸のある人間なんて一人もないくせに
 隣國の港港へ持つて行くものと云へば
 名代の手管と昔しながらの術策なのだ。
 油斷のならない希臘の現状は是なのだ。
 世に知られてるのは此の爲めだ、この爲めばかりだ。
 奴役に馴致された精神を
 軛を求めて低げるその首を起さうとして
 自由がかつを入れてみたつて無駄なことだ。
 希臘の悲哀を私はもう慨歎かない、
 でもとの物語りは悼ましい物語であらう。
 で此物語を聽く人は信じてよいのだ、
 最初にそれを聽いた男は歎く理由があつたのだと。
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2007年11月08日

『不信者』08/34

  遠々と、暗らく、青海原を掠めて
 延びてゆく岩々の影々が
 まいのおとと呼ばれる海賊の
 小艇のやうに漁夫の眼に顯つ。
 その海賊の輕舟を怖れて
 漁夫は道は近いのだが、怪訝いぶしい入江を避ける。
 仕事で疲れきつては居たし、
 捕つて積んだ魚が邪魔にはなつたが
 のろのろと、それでもぐひぐひ櫂を漕ぐ。
 やがて、もう心配の要らないレオン港の海岸の
 東洋の一夜に最も適はしい
 美しい灯がその漁夫を迎へる。


  馬衡はみと弛め、馬蹄つめを速めて
 眞Kな馬をとどろとどろと飛ばせるのは誰だ?
 疾驅する馬の蹄鐵の下に
 打てば鞭の、躍れば蹄の音に應へて
 洞穴に潜める反響こだまが周圍に起る。
 駒の側腹にすじを引く汗泡あせ
 大洋うみうしほの凝れるかと怪しまれる。
 疲れた浪は今は靜まつて立たないが、
 馬上の人の胸の中は少しも休まつてはゐない。
 そして明日の日の暴風あらし雨が脅かさうとも
 若き不信者よ、お前の心に較べたらずつと穩やかなのだ。
 私はお前を知らないし、お前の民族は嫌ひだ、
 だが、お前の顏には、時が強めもこそすれ
 消すことのないものを私は認める。
 若い蒼白い顏だが、その土氣色の前額は
 火のやうな情熱の鉾先に損はれてゐる。
 流れ星のやうにお前が走せ去つて行くとき
 その凶眼は地に向けられてゐるけれども、
 つらつらに觀て、お前は土耳古人達が避けるか
 殺すかどつちかしなければすまない人間だと思ふのだ。
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2007年11月09日

『不信者』09/34

  ひた急ぎに彼が逃げて行つたとき
 私は怪しむで彼を見詰たのだ。
 夜行の惡鬼のやうに通り過ぎ見えなくなつたが
 彼の容貌とその風彩が私の胸の上に
 何やら不氣味な記憶を刻みつけたし、
 いつまでも彼のK馬の怖ろしい蹄の音が
 愕然と駭かされた私の耳に鳴つて殘つた。
 彼は馬に拍車をかける。あの絶壁──出つ張つて
 その影が海上を隈取つてゐる絶壁に近づく。
 まわり、廻つて、急いで通つて行く。
 岩の爲めに私に見えなくなつて彼は助かるのだ、
 何故つて、逃亡者に眼を離さない人間なんて
 頼しくない存在なのだから。
 斯うした際限もない逃亡を續ける人には
 らす星屑の一つでも明る過ぎるのだ。
 廻り廻つて急いだが、通つて行つて終はぬうちに
 見納め心か、一瞥を彼は偸んだ。
 ほんの瞬時ひとときだつたが、疾走する馬を控へて
 速力の爲めの息切れの氣息を休めて
 鐙を踏張つて彼は立ちあがつた。――
 何故彼は橄欖の樹の森を見渡すのか?
 かの小丘の上に三日月の影が仄かに輝いて居る。
 回教の寺院の高いところの灯はまだ震えてゐる。
 餘り距離が遠過ぎて、撃つてゐる
 小銃の音の反響こだまも聞えないけれども、
 それが樂しく鳴るたんびに銃火の閃光が見えて、
 回教信者の熱狂振りを證據立ててゐる。
 らあまざに祭の日の太陽は落ちて
 此の夜ばいらむ祭の祝宴が始まつてゐるのだ、
 此の夜を──だが、お前は誰なのだ、何者なのだ。
 見慣れない服裝をして、怖しい顏をしてゐるのは?
 お前やお前の一族に此の祝祭がどんな關係があつて
 止まつて見たり、逃げたりしなければならないのか?
posted by 天城麗 at 00:00| Comment(0) | 不信者 | 更新情報をチェックする
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