2007年12月03日

『不信者』33/34

  「今更想像のひらめきなど言つてくださいますな。
 いいえ、牧師さん、いいえ、夢ではなかつたのです。
 ああ、夢を見る人は先づ眠らなければならないのに
 私は目を開けたぎりした、そして泣きたかつたのです。
 でも泣けませんでした、かつかと私の額は燃えて
 今のやうに頭腦のしんまでどきどきしたのでした。
 新しく、親しい、何か頼もしいもののやうに、
 その時はそれが欲しかつたのです今でも欲しいのです。
 でも絶望は私の意欲よりも強いのです。
 あなたの祈祷を無駄になさいますな、絶望は
 あなたの敬虔な祈りよりも力が大きいのです。
 祝福されるかも知れませんが、されようとは願はないのです。
 天國を私は望まないのです、休みたいばかりです。
 その時でした、聽いてください牧師さん、その時に
 私は彼女を見たのです、さうです、生き返つたのでした。
 彼女は白い寛やかな外衣を着て照々と輝いて
 私が今つと見据えてゐる彼處の青白い
 灰色の雲を通して光る星かとばり
 見れば見るほどその姿は昔にまさる美しさでした。
 その星のちらちらする光がぼんやりと見えます。
 明日の夜はもつと暗いでせう。
 そしてその星の光が現はれないうちに私は
 生命いのちのあるものの怖れるあの生命のないものになるでせう。
 私は譫言をいつてゐるのです、教父樣、私の魂は、
 終局の行く先をさして飛んで行つてゐるのですから。
 私は彼女を見ました、それで二人の間の
 往時の惱みは忘れて、私は起ちあがりました。
 さつと寢床を離れて箭のやうに飛んで行つて
 私の絶望の胸に彼女を抱き締める──
 抱き締めるつて何を抱くのです。
 腕の中には息の通つてるものの形は何にもないのです。
 私の胸の動悸に應へる胸も何にもないのです。
 でも、レイラよ、姿はやつぱりお前の姿なのです。
 私の眼には見せがら觸つても觸つた感じをさせない
 それほどにあなたは變つて終つたのですか。
 嗟、あなたの姿がそんな冷たいものだつたら
 私の腕に抱きたいと昔しは思つたあなたの總てを
 さほど私は抱きたいとは思はないのです。
 嗟、一つの影を抱き締めた私の双腕は
 私の淋しい胸の上に空しく縮む。
 でもやつぱり、消えもせず、默つて立つて
 切なる心を籠めた手がさし招いてゐる。
 頭髮を組みあげて、明るいKい眼をして
 判りました、嘘だつたのです──彼女は死んだ筈はないのです。
 でも彼の男は死んだのです。あの峽谷の中の
 彼が斃れた場所に葬られたのを私は見ました。
 彼は來はしませぬ、地を割つては出られないからです。
 ところで、何故あなたは起きてゐられるのです。
 私が眺めるその顏の上を、私の好きなその姿の上を
 荒浪がうねつたといふのです。
 噂にしろ、恐ろしい物語りでした。
 話さうたつて私の舌が言ふことをききますまい。
 若し眞實なら、そしてもつと靜かな墓を求めて
 海の底の洞穴から、あなたが來たのでしたら
 おお、あなたの濡れた指で此額を撫でてください、
 さうしたらもう額は燃えないでせう。
 でなければその指を私の絶望のこの胸に載せてください。
 だが影だか形だか何であなたがあらうとも
 どうぞ二度と去んではくださるな、
 でなければ一緒に私の魂を伴れて行つてください、
 風も浪も持つては行けない遠い遠いはての涯まで。

  ×  ×  ×  ×  ×
   ×  ×  ×  ×  ×


posted by 天城麗 at 00:00| Comment(0) | 不信者 | 更新情報をチェックする
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