2007年11月23日

『不信者』23/34

 彼處にゐる孤獨な希臘僧かろやあはどう言ふ名前の男なのだ。
  彼の顏を私自身の國で前に見たことがある。
 それは大分むかしのことだが、あんな勢ひで
  馬を飛ばす騎手を私はいまだ嘗つて
 見たことがない程、まつしぐらに淋しい海岸を
 馬を驅つて行くあの男を私は見たのだ。
 一度丈見た顏だがでもその時分の
 その顏には内心の苦悶の色がありありと表はれてゐて
 二度と看過すことの出來ないものだつたが
 死の刻印を捺したやうに彼の額には
 それと同じ恐ろしい精神が今も示されてゐるのだ。

  ×  ×  ×  ×  ×

  「私達の僧侶の仲間入りをしてから、
 それは六年前の夏のことだ。
 彼が言はうとはしない何か怖ろしい行爲の爲めに
  この僧院に居るのが彼の慰めになるのだ。
 だが、私達と夕方の祈祷を共にしないし
 懺悔の椅子の前に跪つきもしなければ、
 香の煙が立ち昇らうと、唱歌の聲が響かうと
 一向に彼は頓着しないで
 僧房の中に獨りで考え込んでゐるばかり、
 その宗教も民族も等しく不明なのだ。
 回教の土地から海を越えて來て
 沿岸から此處へ上陸して來たのだ。
 だが土耳古民族らしくはないし
 顏を見るとどうしても基督教徒に違ひないのだ。
 その變節を後悔してゐる
 迷つた背教者だと私はおもひたいのだが、
 合點のいかないのは、私達の聖廟に參詣もしないし
 神聖な麺麭と葡萄酒の食事も攝らないことだ。
 莫大な進物をこの修道院に持つて來たので
 院長殿のご機嫌はよかつたのだが
 私が院長だつたら、もう一日だつて
 あんな見知らない男を滯在とめては置かないし
 停めておくにしろ、懺悔室に押し込めて
 永久にそこに住むやうにしてやるんだがな。
 彼の男の夢まぼろしの呟きといへば
 海の底に深く沈められた女
 鏘然と鳴る軍刀の音、敗走する敵の兵士
 復讐かたきをとげた意恨、死にかけてゐる回教徒のことなのだ。
 彼はよく崖の上に立つことがあるんだ、
 そして腕から切り落されたばかりの
 血だらけの手首を見てゐるやうに譫言を言ふのだ、
 彼の外には誰にも見えないのだが、
 その手首が墓へ彼を招いて、
 海の中へ跳び込めと誘ふんだ。」

  ×  ×  ×  ×  ×
   ×  ×  ×  ×  ×


posted by 天城麗 at 00:00| Comment(0) | 不信者 | 更新情報をチェックする
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