2007年11月21日

『不信者』21/34

  草を食む幾頭の駱駝の鈴が鳴つてゐる。
 ハツサンの母は高い格子窓から眺めて
  眼下の青々とした牧場に撒かれたやうに
 夕の露が置かれてゐるのを彼女は見たし
  微かに瞬いてゐる星屑も見た。
 「もうたそがれ──彼の行列も近づいてゐるにちがひない。」
 彼女は庭の亭に休息を取ることも出來ずに
 一番高い塔の窓格子からぢつと外を眺めたのだつた。
  「何故彼は來ないのだらう、馬は駿足ではあるし、
 暑さに避易ひるみはしない筈。
 約束の進物を花嫁に何故送つては來ないのだ。
 彼の心が割合に冷たく、馬が餘り速くないのか、
 ああ、この非難は間違つてゐる、あしこに見える韃靼人は
 間近くの山の上端に到達してゐて、
 用心深く險路を降りはじめ
 もう谿のうちへ向つて來るが
 鞍に前穹に進物をつけてゐる。
 馬が遲いなぞ考えるのではなかつた。
 はるばる急いで來て呉れた
 返禮に贈り物を充分にしてやりませう。」

  ×  ×  ×  ×  ×

 山を降りて來た韃靼人は門で馬を下りたが、
 疲れきつてゐて、立つてはゐられないやうだつた。
 黝ずんだ彼の顏が苦惱を語つてゐた。
 だがそれは疲勞の爲めかも知れなかつた。
 彼の衣服に斑々と血の汚點がついてゐたが、
 その血は馬の腹からの血であるかも知れなかつた。
 彼の肌衣から取り出した記念の品品──
 や、や、これは! ハツサンの割られた兜のはちまん座、
 裂れた土耳古帽と血染めの肌衣かふたんだつた。
 「奧方、怖ろしい花嫁を主公は迎えられたのです。
 敵の慈悲なさけで私は助けられたのではありませぬ。
 血に染まつた抵當かたみ物を携えて來る爲めなのです。
 血をこぼされた勇者に平和がありますように、
 血をこぼした不信者に禍がありますように」

  ×  ×  ×  ×  ×

  極めて粗末な石に土耳古帽が刻まれて、
 故人を追悼する古蘭の詩句も
 今は殆んど讀まれなくなつてゐる
 雜草の生ひ茂つた一柱の墓石は
 あの淋しい谿の犧牲者の一人として
 ハツサンが戰ひ死んだ場所を指し示してゐる。
 めつかに跪き禮をした回教徒
 禁ぜられた葡萄酒を口にしなかつた回教徒
 あらひゆうといふ嚴肅な聲を聽いて、
 更に新しく唱へ始める祈祷の時
 かの靈廟の方に顏を向けて祈つた回教徒の
 誰にも勝つて誠實な回教徒がそこに眠つてゐるのだ。
 でも彼の故國にあつては知る人もない
 一人の他國人の手にかかつて死んだのだ。
 だが、彼は武器を手にして戰ひ死んでその恨みは
 少くも相手を殺して、晴らしてはもらへないのだ。
 でも極樂の美女達はその部屋部屋で、
  彼が行くのを待ちあぐんでゐるのだし、
 その女菩薩達の美しいKい眼は
  いつも輝いて彼を迎へ見るだらう。
 その極樂の麗人達が來る──告Fの頭巾を振ながら
 それそれに勇者を迎へて接唇を一つ與へるのだ。
 不信者を敵として戰死する勇者こそ
 極樂の女部屋に入る最適人者なのだ。

  ×  ×  ×  ×  ×


posted by 天城麗 at 00:00| Comment(0) | 不信者 | 更新情報をチェックする
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