2007年11月11日

『不信者』11/34

 あの時は過ぎた、あの不信者は居なくなつた。
 彼は逃げたか、或は獨り戰ひ死んだか?
 彼が來た時、或は去つた時、その時が禍なのだ。
 ハツサンの罪の爲に宮殿を墓に變へるべく
 呪詛が送られたのであつた。
 沙漠の熱風のやうに彼はやつて來て、去つて終つたのだ、
 破滅と憂欝の先驅さきぶれ者とも言ふべく、
 荒らし卷くるその風に吹かれては
 絲繪の木だつて萎れて枯れて了ふ──
 無氣味な木だが、他のものが悲しみを忘れても
 いつも偸らず俛首れて、墓の主を悼むのは此木だけだ。


  厩舍の馬は消えてなくなつてゐる。
 ハツサンの邸宅には農奴一人ゐない。
 壁の上を擴がつて徐に浪をうたせてゐるのは
 孤獨な蜘蛛が懸けた灰色の帷帳だ。
 妾妻を置いてゐた部屋の中は蝙蝠が巣を食つて
 彼の威力を誇つた城砦では
 梟が烽火塔を横領してゐる。
 渇いても、餓えても、飮めもせず、食へもしないで
 獰猛になつた野犬が、噴泉の縁を咆え歩るくのは
 大理石の床に湛へた水は涸れて、一面に
 雜草や塵挨に荒はててゐるからだ。
 その昔、水が高く跳つて、銀の露の玉は
 氣紛れに渦を卷いて飛び散り
 あたりの空氣を冷えびえとここちよく冷えさせ
 地面を青々と草に生氣をもたせて
 噴き出して、蒸し暑い晝日中の熱氣を
 追ひ拂ふのは見るからに愉しいものだつた。
 雲のない空に星屑が明るく輝く時、
 蒼白く光るその水の浪を見、そしてまた
 夜の泉の旋律しらべを聽くのは樂しかつたものだ。
 ハツサンが幼少の時分たびたび
 その小瀧の縁を廻つて遊んだものだつたし、
 母親の胸に抱かれて、その音をききながら
 よい氣持に眠つたこともしばしばだつた。
 ハツサンが青年になつてからその泉の岸沿ひに
 美女の歌謠に慰められたことも度々あつた。
 そしてその泉の音に溶け合つて流るるやうな
 音樂の音色が一つ一つ一層なごやかに思はれたのだつた。
 だが、老樂のハツサンがその泉の縁沿ひに
 日が暮れてから休息することは決してあるまい。


posted by 天城麗 at 00:00| Comment(0) | 不信者 | 更新情報をチェックする
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