2007年11月10日

『不信者』10/34

  彼は鐙を踏んで立つた──顏には何か恐怖の色が見えた。
 恐怖の色は間もなく憎惡の色に變つた。
 氣味の惡い程白いのが憂欝をそへる
 墓の上の大理石のその蒼白な色だつた。
 眉は顰められ、眼は底光りがしてゐた。
 彼は腕を差し上げた、猛烈にさし上げた。
 そして嚴しく手を高く振つた。
 引き返さうか、逃げ終さうかと迷つてゐるかのやうに。
 遁走が延引おくれたのをもどかしがつて
 ぬば玉の彼のK馬は高く嘶いた――
 差し上げた手をさつと引いて、むづと劍を握つた。
 握つたその音が彼のうつゝの夢を破つた、
 梟の叫びを聽いて、愕然と眠りから覺める人のやうに。
 拍車は彼の馬の腹部はらを刺して
 高く投げられた槍のやうに迅速に
 驅り去るや、まつしぐら。
 蹴られて愕き、馬は躍る。
 岩角を廻つて最早海岸は戞然と鳴る
 その蹄の昔に震へることもない。
 目ざした斷崖に行き着いて、彼の基督教徒の
 被り物の飾りも傲然たる風貌も見えなくなつた。
 ぐいと嚴しく、手綱を絞つて、悍しいあの馬を
 止めたのはほんの瞬間ひとときに過ぎなかつたし
 彼が馬上に立つたのも、ほんの一瞬間であつて
 死靈に追はれてゐるかのやうに、急いで行つて終つた。
 だが、その束の間を彼の魂の上に
 思ひ出の幾歳の浪が打ち寄せて
 月日ときのそのただ一滴に苦惱のながき一生と
 罪惡の一時代が集まるやうに思はれた。
 愛したり、憎んだり、怖れたりする人の上に
 斯うした瞬間が、幾歳の悲歎を濺ぎ懸けるものなのだ。
 いとも強く胸を攪き亂す、あらゆるものの同時の
 壓迫を受けてその時彼は何を感じたのか?
 熟々に彼の運命に考へ及ばせたその合間ぼうず
 ああ、その一時の、寂しくも長い月日の
 日附けを記くものがあるであらうか。
 時の記録からすれば、殆んど無に等しいものではあつたが、
 思想に取つては、それは永遠であつたのだ。
 名も、望も、終りもない苦惱を
 それ自身に含むことの出來る思想は
 良心をかならず抱えてゐるもので
 無邊の空間のやうに無限だからである。


posted by 天城麗 at 00:00| Comment(0) | 不信者 | 更新情報をチェックする
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