2007年11月09日

『不信者』09/34

  ひた急ぎに彼が逃げて行つたとき
 私は怪しむで彼を見詰たのだ。
 夜行の惡鬼のやうに通り過ぎ見えなくなつたが
 彼の容貌とその風彩が私の胸の上に
 何やら不氣味な記憶を刻みつけたし、
 いつまでも彼のK馬の怖ろしい蹄の音が
 愕然と駭かされた私の耳に鳴つて殘つた。
 彼は馬に拍車をかける。あの絶壁──出つ張つて
 その影が海上を隈取つてゐる絶壁に近づく。
 まわり、廻つて、急いで通つて行く。
 岩の爲めに私に見えなくなつて彼は助かるのだ、
 何故つて、逃亡者に眼を離さない人間なんて
 頼しくない存在なのだから。
 斯うした際限もない逃亡を續ける人には
 らす星屑の一つでも明る過ぎるのだ。
 廻り廻つて急いだが、通つて行つて終はぬうちに
 見納め心か、一瞥を彼は偸んだ。
 ほんの瞬時ひとときだつたが、疾走する馬を控へて
 速力の爲めの息切れの氣息を休めて
 鐙を踏張つて彼は立ちあがつた。――
 何故彼は橄欖の樹の森を見渡すのか?
 かの小丘の上に三日月の影が仄かに輝いて居る。
 回教の寺院の高いところの灯はまだ震えてゐる。
 餘り距離が遠過ぎて、撃つてゐる
 小銃の音の反響こだまも聞えないけれども、
 それが樂しく鳴るたんびに銃火の閃光が見えて、
 回教信者の熱狂振りを證據立ててゐる。
 らあまざに祭の日の太陽は落ちて
 此の夜ばいらむ祭の祝宴が始まつてゐるのだ、
 此の夜を──だが、お前は誰なのだ、何者なのだ。
 見慣れない服裝をして、怖しい顏をしてゐるのは?
 お前やお前の一族に此の祝祭がどんな關係があつて
 止まつて見たり、逃げたりしなければならないのか?


posted by 天城麗 at 00:00| Comment(0) | 不信者 | 更新情報をチェックする
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