2009年02月01日

『バイロン伝』第七章 06/13

 彼はこれまでに習ひ研めた魔法を使つて、宇宙の精靈達を呼び出す。彼の咒文によつて現はれ出て來るものは、自然界を支配してゐる七人の精靈である。
 七人の精靈達は、マンフレッドに向つて、
「何が望みでお前は私達を呼び出したのだ? それを言へ!」と言ふ。
「忘れると言ふことだ」とマンフレッドが答へる。──

  第一の精靈
何を忘れたいのだ?
誰を忘れたいのだ?
何故に忘れたいのだ?
  マンフレッド
私の胸の中にあるものを忘れたい。
それは私の胸の中に讀んで呉れ──
お前はそれを知つてゐる。
だが、私には言葉にして言ひ現はすことが出來ないのだ。


 しかし、精靈等には「忘れると言ふ事」をマンフレッドに與へる事が出來ない。それ以外のものならば、地上一切の富も力も地位も與へる事が出來るが、「忘却」だけは彼等の力に及ばない。マンフレッドの求めてゐるものは「自己忘却」である。彼は、「自己忘却」さへ得られゝば、死んでも構はないと思つてゐる。彼には生きてゐる事は苦惱に過ぎないのである。しかし、多年の魔法の修業に依つて、彼の身は不死のやうになつてゐる。彼には「自己忘却」のために死ぬと言ふ事さへもが拒まれてゐる。いつになつたら死ぬるのか、自分自身にさへもはつきりとは解らない。
 彼はせめて美しい精靈の姿でも見て心を慰めようと思つて、精靈等の一人に向つて、姿を現はさせる。第七の精靈が美しい女の姿になつて現はれる。マンフレッドはそれを見て言ふ。

  マンフレッド
あゝ! 若しこのやうであつて、お前が狂想でもまやかしでも無かつたならば、
私はまだ、最も幸福である事が出來る。
私はお前を抱かう。
そしてわれ/\は再び──


 彼は自己の苦惱のあまり、精靈の女でも構はない、とにかく愛して見ようと思ふ。その愛に依つて自己を救ひに導びかうと言ふ希望を持つたのであつた。しかし、精靈の女は結局精靈の女である。マンフレッドが抱かうとして進み寄ると、忽然として消え去つてしまつた。マンフレッドの傍い望みは打ち碎かれた。彼は失神して倒れる。
 そして、靜寂の中に、物恐ろしい一つの咒文の聲が響く。この咒文の歌は、マンフレッドの上にのべられた惡運のすべてを、單調な調子で歌ふ。──

……(前略)
お前の頭の上に、私は酒杯を注ぐ、
これは、この苦しみにお前を墮さんがためだ。
眠ることも出來なければ、
死ぬことも出來ぬのが、
お前の運命だ。
死を望むお前の心には
死は近いものにも思へようが、
それはたゞ恐ろしさが、
死を近いものに思はせるのに過ぎぬ。
見よ! 咒文は既に
お前の周圍に働いてゐる、
そして、音の無い鎖がお前を縛つた。
お前の心と頭の上に
言葉は既に宣べられた──
さあ魔力よ萎め!
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2009年02月02日

『バイロン伝』第七章 07/13

 第二場になる。
 アルプスの高峰ユングフラウ山の朝である。斷崖の上にマンフレッドが一人で立つてゐる。マンフレッドは矢張り憂鬱である。彼の前には朝日に輝いた新鮮な風景がある。しかしそれは彼の心を寸毫も慰めてくれようとはしない。

  マンフレッド
…………(前略)
母なる大地よ!
また新鮮なる朝よ、山々よ、
お前達は何故にこんなに美しいのだ?
私はお前達を愛し得ない。
また汝、光りかゞやく宇宙の眼、
すべての物皆の上に開いて、
喜びとなる宇宙の眼よ、
お前は私の心を照さない。


 彼はひと思ひに斷崖から飛び込みたい衝動を感じる。しかしどうしたのか飛び込めない。亂れきつた自分の精神をどうしたら落着かせる事ができるかと思ひ迷つている。そこへ遙かに山の牧童の笛の音が聞えて來る。その笛の音は、現身に疲れ切つたマンフレッドには、眞實の靈の呼聲のやうに聞える。その笛の音と共に死んで行きたいと思ふ心が、マンフレッドに起る。そこへ羚羊を追つて來た獵師が現はれる。マンフレッドは獵師が自分の背後に來たのを知らない。そしていよ/\斷崖から身を投げて死んでしまはうとする。背後に來てゐた獵師がそれを抱き止める。そしてマンフレッドを助けて自分の小屋へと連れ去る。死を欲してゐるマンフレッドには、まだ死がめぐまれない。
 第二幕が續く。第一場はベルン・アルプス山間の小屋である。マンフレッドを助けた獵師が、マンフレッドをいたはつてゐる。獵師は沈みきつたマンフレッドの氣を引き立てようと、葡萄酒をすゝめる。マンフレッドはその酒杯を見て叫聲をあげる。赤い葡萄酒が彼には血に見えたのである。彼は次第に矯激な事を口走り初める。何も知らない獵師には、マンフレッドが狂人としか思はれない。マンフレッドの眼には、その獵師の「謙遜な徳、親切な家、辛抱強く敬虔で誇りかな自由な精神、邪氣の無い思想に接合された自重の心、健康な晝と安眠の夜、危險によつて威嚴を増し、しかも罪無い勞役、愉快な老年の希望と靜かな墓、その墓の高フ芝生の上には十字架を立て花環を飾り、また墓碑銘に向つての孫達の愛慕」等が、うらやましいものに思はれる。
 次第に身心のしつかりして來たマンフレッドは、獵師に禮をして小屋を出て行く。
 第二場はアルプス山中の谷間になる。瀧の邊、マンフレッドが出て來る。彼は瀧に向つて咒法を行つて妖女を現はす。妖女は、マンフレッドの求める所を尋ねる。マンフレッドはそれに答へて、自分が戀してゐた血縁の娘(これは自分が戀したがために死んでしまつたが)を甦らしてくれるか、それとも自分を死なしてくれと頼む。妖女にはそれが出來ない。が、
「もし、お前が私の意志に從ふことを誓つて、私の命令通りにやれば、お前の望みをとげる助けにはならう」と言ふ。然し、マンフレッドには、彼女に服從することが出來ない。彼の傲慢な心は、自分以外の者の命令に依つて行動することを極端に嫌つてゐるのである。妖女は去る。夜が近づいて來る。
 第三場はユングフラウの山頂である。運命の神が現はれて來る。今夜は神々の祭禮がアリマネスの大廣間であると言ふので、運命の神は此處で他の神々を待ち合はしてゐるのである。やがて第二と第三の運命の神がやつて來る。その後からネメシスが現はれる。これらの神々は、すべて人生の運命と言ふ運命を司る神々である。彼等は打ち揃つてアリマネスの廣間に向ふ。
 第四場はアリマネスの廣間。アリマネスは玉座に坐つてゐる。それを取卷いて諸精靈がゐる。ネメシス及び運命の神々が登場する。其處へマンフレッドが出て來る。精靈等は、神々の祭禮の中に人間が現はれたのを見て、怒り且つ恐れる。精靈逵は彼を引裂かうとする。それを第一の運命の神が押し止める。ネメシスがマンフレッドに向つて「お前は何がほしいのだ?」と尋ねる。マンフレッドはそれに答へて、「死んだ自分の戀人アスタルテを呼び出してくれ」と言ふ。ネメシスが咒文をとなへると忽ちアスタルテの幻影が現はれる。マンフレッドは幻影に向つて、いろ/\と話しかける。幻影は僅かに、「マンフレッド、あなたの現世の惱みは明日終ります。さらば」とだけ言つて消える。マンフレッドは一度はよろ/\としたが、やがて氣を取り直して此處を去る。
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2009年02月03日

『バイロン伝』第七章 08/13

 第三幕第一場はマンフレッドの城内の廣間。マンフレッドには、最後の靜けさが感じられる。

  マンフレッド
私の上には靜けさがある──
言ふに言へない靜けさ!
これは今迄、私の人生に對する知識には無かつたものだ。


 そこへ、侍從のヘルマンが、セント・モーリスの僧院長を導いて來る。マンフレッドが魔法を使つて、精靈と言葉を交してゐると言ふ噂を開いて、それをいさめに來たのであつた。この僧院長はキリスト教の教會を代表してゐる。又、マンフレッドの不可解な行爲によつておびやかされた庶民を代表してゐる。僧院長は、
「眞の教會と和解をなさるがよい。そして教會を通じて神樣へ和解されたがよい」と言葉を盡してすすめる。然しマンフレッドはそれを聞き入れようとしない。
「たとへ私は今迄どんな人間であつたにしろ、又現在どんな人間であるにしろ、その事は神樣と私自身の問題です。その間に、人間の仲介者を立てたりは致しません」
「しかし、あなたの思つてゐる事をすつかり話して御覽なさい。すれば、私が力を添へて助けられるものなら助けてあげませう」と僧院長も思ひ切らうとはしない。マンフレッドは、ネロの言つた「もうおそい!」と言ふ言葉を引いて、それを拒む。
「獅子は獨りつきりでゐます。私もその通りです」
 マンフレッドは廣間を出て行く。後に取り殘された僧院長は、まだマンフレッドを救つてやる事を思ひとゞまりきれない。
 第二場ではマンフレッドは、西の山の端に沒しようとしてゐる太陽に向つて、深い感慨に耽る。彼には、もう既に、二度と再び自分は生きて太陽を見る事が出來ないことが、解つてゐるのである。太陽が沈んでしまつて、運命の夜が近づく。
 第三場はマンフレッドの籠つてゐる塔の前の臺地である。ヘルマン、マヌエル、その他のマンフレッドの家來が立つて話をしてゐる。彼等の話は、すべてマンフレッドに就いての話である。
 其處へ以前の僧院長がやつて來る。そして皆がとめるのも聽かずに、マンフレッドを諫めに塔の内へ入つて行くと言ふ。
 第四場はその塔の内部である。マンフレッドが唯一人ゐる。

  マンフレッド
星が出た、
月が、輝く山々の頂に昇つた。──
美しい!
私はまだ自然と共に躊躇してゐる。
それと言ふのも、私に取つては、
人の顏よりも夜が親しい顏であつたからだ。
思ひ起せば、青年の頃、
諸方を遍歴して歩いた時、──
このやうな夜、大ローマ帝國の遺物に取卷かれて、
コリセアムの壁の中に立つたものだ。
崩れた門に沿つて生えた木々は、
青い深夜の中にゆらめき、
星は廢墟のわれ目を通して瞬いた。
遠くの方からは、ティべル河の彼岸に、
番犬が遠吠えをし、
近いシーザーの宮殿の中からは、
梟が長く鳴く聲がして來、
遙かに遠く、歩哨の途切れ途切れの歌聲は、
そよ風に送られて、聞えては止んだ。
歳月に荒れ果てた廢墟のかなたに立つてゐるサイプレスの木は、
あたかも地平線を縁どつてゐるやうに見えるが、
實はほんの近くにあつた。
曾てはシーザーが住み、今は歌も唄はぬ夜の鳥が住んでゐるところ、
平たくした堡壘の間から茂つて、
その根を以て昔の帝王の家の爐を卷いてゐる小森の中に、
月桂樹の生えてゐた場所に、
蔦がはびこつてゐる。
だが、ローマ劍客の血なまぐさい圓形劇場は、
廢墟の美しさの中に、氣高い遺跡として殘つてゐる。
だが、シーザーの居間も、
オーガスタスの廣間も、
地上に倒れ落ちて、
見分けもつかなくなつてゐる。
……………………


 彼は青春時代の旅行の思ひ出に耽る。(この思ひ出は、この作中最も出色の出來だと言はれてゐる詩句から成つて居り、同時に、作者バイロン自身の青春時代の旅行の囘想であると言ふ點で、興味ある個所である)
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2009年02月04日

『バイロン伝』第七章 09/13

 そこへ僧院長が入つて來る。僧院長は、再びマンフレッドを諫める。

  僧院長
……………………
私が、言葉や祈祷に依つて、
あなたの心に觸れる事が出來れば、
これまで、さ迷うてゐたあなたの氣高い魂を呼び戻せると言ふものです。
あなたの魂はさ迷うてはゐるが、
まだすつかり失はれてはゐませんぢや。
  マンフレッド
あなたは私を御存じが無いのです。
私の餘命は、幾何もありません。
そして、私のする事はきまつてゐます。
お歸りなさい、でないと危險ですよ!
お歸りなさい!


 其處へマンフレッドの死の精靈が近づいて來る。精靈はマンフレッドに向つて、
「來れ!」と呼ぶ。「來れ! 死の時だ!」
 しかレマンフレッドは他から命令されて、その通りにする事の出來ぬ男である。彼は精靈に從つて行くことを拒む。
「私は、自分の最後の時が來たと言ふ事は、以前も今も知つてゐる。だがお前ごとき者に私の魂を渡すことはならぬ。去れ! 私は生きてゐた時の通りに、たゞ一人で死ぬのだ」
 精靈は怒つて、他の諸精靈を呼び出す。しかしマンフレッドはそれらの精靈に從つて自分自身を死に手渡すことを拒む。精靈等は自分等の努力の無益なのを悟つて皆消え去つてしまふ。後には僧院長とマンフレッドが殘る。この時既にマンフレッドには死が迫つて來つゝある。

  僧院長
あゝ!
何と言ふ、あなたの顏は蒼ざめてゐることだらう、──
あなたの唇は白い、──
言葉は喘いでゐる咽喉に鳴つてゐる、──
天に祈祷を捧げなさい、──
祈りなされ、──
たとへ心の中でゞもよいから、──
このまゝ死んではなりません。
  マンフレッド
事は終つた、──
私のぼんやりとした眼では、あなたの姿がはつきりと見えない。
すべての物が私の周圍を游ぎ廻る。
大地はあたかも私の下にうねつてゐるやうだ。
さらば!
あなたの手を握らして下さい。
  僧院長
冷たい──冷たい──核《しん》まで冷たい。
だがまだ祈祷を一つ……
あゝ! あなたはどうなされた?
  マンフレッド
御老人!
死ぬのは大してむつかしくはありませんよ。


 マンフレッドは遂に死んだ。
 この恐ろしい悲劇の主人公に壞滅が來たのである。同時に救濟が來たのである。「宇宙の最大の謎」の解決を求めて、いろ/\の事を知り盡し、いろ/\の苦しみを苦しみ盡したマンフレッドにも、結局は唯一つの死、永劫變らざる自然の約束である死のみが、靜かにやつて來たに過ぎなかつた。その死がマンフレッドに取つて眞實の救ひであつたか、又はより慘苦なる地獄への入口であつたか、それはマンフレッド自身にさへ解らなかつた。僧院長にも解らない。作者バイロンにも多分解つてゐなかつたに相違ない。そして、それは常に誰にも解らない事である。

 バイロンは、マンフレッドに於て、實によく彼自身の性格と生活を丸彫りにしてゐる。無論、バイロン自身のそれまでの生活と、マンフレッドの生活とは、かなり相違した點もあるし、又誇張された點もある。しかし、その最初のモティーヴに於て、バイロンとマンフレッドの生活態度、或は性格の發展の徑路は全然同一のものである。
 或る批評家は、バイロンとその異母姉のオーガスタとの關係が、この作中のマンフレッドとアスタルテとの關係で暗示されてゐると言ふ。と言ふのは、バイロンが、その妻と別れることになつた原因の一つとして、バイロンと異母姉のオーガスタとの間に醜關係があつたのだと言ふ説が、バイロン夫人味方の人々の間に行はれた。無論バイロンはその事實を否定した。然し世間の非難は、そのためにバイロンをして外遊を思ひ立たせるほどまで、彼の身邊に迫つたのである。もつともバイロン夫人に味方をして「バイロンとオーガスタの醜關係説」を採る人々にも、別に具體的にどうかうと言へる證據は無かつた。と同樣に、バイロンの方にも、その説を十分の理由を以て否定し去るに足る程の證據の無かつたのも事實である。ところが、バイロン夫人味方の人々は、この『マンフレッド』を見るに及んで、
「バイロンは、知らず識らずの内に、自分とオーガスタの醜關係を、マンフレッドとアスタルテとの鬪係に依つて是認してゐるぢやないか」と論じた。
 この事は未だに判然としない謎である。しかし、どちらにしても、先に言つたやうに『マンフレッド』は、あらゆる點に於て、作者バイロン自身の生活と、不思議に近い相似を持つてゐる事は事實だと見て差しつかへ無い。
 もう一つ『マンフレッド』に於て興味ある事は、バイロンは、自己の過去の生活をこの作の中に織り込んでゐるのみならず、更に、自分自身の未來に對して豫言をしてゐる事である。言ふまでも無く、この豫言はそつくりその儘には的中してゐない。然し、中心をなす主調に於ては、全く當つてゐる。
 それは、それ以後のバイロンの生活を見れば、誰でもが十分に思ひ當り得る事である。
 で、再び私は彼の生活に歸らう。
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2009年02月05日

『バイロン伝』第七章 10/13

 一八一七年の九月にバイロンは、かねてから自分に對して種々の厚意を示してくれた英國ヴェニス領事なるホップナーに交渉して、エステに近いエウガニアの丘にある田舍家を借りる事にした。しかし、その年の冬を過すために、十月にはヴェニスに住んだ。最初の間は以前に一度居た事のあるスペッチェリアの家にゐたが、後になつてモチェニゴ伯爵夫人の持物になつてゐる宮殿の一つを貸して貰つて住んだ。この宮殿はヴェニスの大運河にのぞんで建つてゐた。
 それからの二年間を彼はこの宮殿と、エステの田舍家と、ラ・ミラの別莊に、かはる/″\移り住んだ。その間矢張り彼の生活は、女との情事に於てゆたかであつた。初めの間は、アルブリッヂ侯爵夫人のサロンによく出入した。其處には、彼の詩人としての才分と名聲とに對して、尊敬又は興味を持つてゐる身分のよい人々がよく出入した。次にはペンゾニ伯爵夫人と交際をして、彼女を手に入れようとしてゐる多くの男達の仲間に入つた。その間も絶えず彼の心は憂鬱で孤獨であつた。その憂鬱と孤獨とを拂ひのけるために、益々彼は、日夜の放蕩生活の中に享樂を求めて歩いた。文字通りに耽溺の生活が開けて行つた。いかゞはしいヴェニスの女達の數人をも知つた。殊に一八一八年・一八一九年兩年の謝肉祭などの時は、彼の享樂生活は、殆んどその絶頂に達した。
 前に言つたマリアナ・セガティとは、一八一八年の初めに手を切つてしまつた。自分が與へた寶石を彼女が賣りとばした事を知つたためであつた。それに、例の通りにこの女にも、そろ/\飽きて來たためもあつたであらう。マリアナの次にはマルガリタ・コグニと言ふ女に關係した。これはヴェニスの麺麭屋の妻であつた。然しそんな小商人の妻であつたにもかゝはらず、なか/\容貌才能ともに立派な女であつた。實に美しいブルーネットで、しかもアマゾンのやうな力を持つてゐた。この女は一年間、バイロンの借りてゐる宮殿の中にバイロンと同棲して、あたかも其處の主婦でゞもあるかのやうに僕婢等を追ひ使つた。然し彼女は字も讀めなければ書けもしなかつた。そのために、何でも無いのに邪推をしてバイロンの手紙を中途で横取りしたりした。だが、なか/\家政の道に長じてゐて、家の中をきちんと整頓したり、暮し向きの費用をうまく節約するのに妙を得てゐた。彼女は心からバイロンを愛してゐた。バイロンが曾てゴンドラに乘つて海に出かけて、暴風雨に逢つた事がある。その際に彼女がどんなに彼の身の上を氣遣つたか、バイロンが無事に歸宅したのを見て、如何に彼女が荒々しい喜悦の情を現はしたか、等の事はバイロン自身が書いてゐる。──
「ある秋の日であつた。私達はゴンドラに乘つてリドに出かけた。ところがその途中でひどい暴風雨に逢つた。ゴンドラはあぶなく難船しさうになつた。われ/\の冠つてゐる帽子は吹きとばされ、船は水で一杯になり、櫂は流され、波は荒くさかまき、雷鳴轟き、雨はどしや降りに降つて、暴風雨は止まうとしなかつた。懸命に鬪つてわれ/\がやつと歸り着くと彼女(マルガリタ)が大運河のモチェニゴ宮殿の張出し階段の上に立つてゐた。彼女の大きな黒い眼は、涙を流しながら血走つてゐた。そして、その長い黒髮は吹き流されたまゝ雨にぐつしよりぬれて眉の上にふりかゝつてゐた。彼女はすつかり暴風雨の中に曝されて立つてゐた。その風は、痩型の身にまとつた彼女の着物を吹き拂つてゐた。電光は彼女の周圍にきらめいた。そのさまが、戰車から降り立つた女神メデアのやうであつた。若しくは、彼女の周圍に荒れ廻つてゐる暴風雨のシビルのやうであつた。暴風雨の中にゐる人間と言へば、われ/\以外には彼女一人であつた。……私を見た彼女の喜びは、稍々荒々しい所さへもあつた。そして、自分の子供が生き歸つて來たのを喜んでゐる牡虎といふ感じがした」
 然しこの女との仲も、いつまでも無事には行かなかつた。彼女は次第にバイロンの女の知人に對して嫉妬を感じて來た。しまひにはそれが激しくなつて、公けの席上で、バイロンを見詰めたりする女でもあると、あばれ出したり、その女の帽子を掴み取つたりするやうになつた。そして最後に運河に身を投げた。幸ひに運よく死なずにはすんだが、バイロンとの仲はそれきりになつて、モチェニゴの宮殿を出て行く事になつた。その後バイロンと彼女とは僅かに二度劇場で出會つたばかりで、それなり永久に絶縁された。
 ヴェニスで暮してゐた間も、バイロンは暇さへあれば馬に乘り、水に游いだ。彼は游泳にかけてはなか/\上手で、この事は人も許し、自分も誇つてゐた。彼があまり游いでばかりゐるので、「英國の魚」だとか、「水のスパニエル犬」だとか、「海の魔」だとか人々から言はれた。それに就いて面白い話がある。その頃彼を知つてゐたヴェニスの一船頭が、
「あの人(バイロン)は立派なゴンドラ漕ぎですぜ、たゞ惜しい事には詩人で貴族でさあ」と言つた。又、その船頭に、或る旅行者が、
「あの人は何處で詩を書くのかね?」と訊ねた。すると船頭が、
「水の中へもぐつて書くんでさあ」と答へたと言ふ。それ位に游泳には夢中になつてゐたのだ。そのせゐでも無からうが當時の彼は食物はかなり節制して小食をした。夜には一杯のジンと水とを詩を書きながら飮み、朝になるとクラレット酒とソーダ水を飮んだ。
 彼のヴェニスの生活は、享樂や交際に忙しかつたが、然し詩作の力を衰へさせはしなかつた。
『ベッポ』を書き、『マゼッパ』を作り、『ドン・ファン』の最初の數卷を完成してゐる。『ドン・ファン』の第一卷は一八一八年の十一月に書かれ、第二卷は次の年の一月に書かれた。第三卷と第四卷とは、その年の末に書き上げられた。『ベッポ』はヴェニスの物語であり、スケッチであつて、バイロンが諷刺家として、社會生活に對する滿腹の諷刺を吐き出した作である。殊にその序詩は立派なものである。『マゼッパ』は、比較的に彼の初期の作品に似たスタイル──スコット風のスタイル──で書かれてゐる。
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